グッドバイ、レオパレス

新卒で入った会社を2ヶ月も経たないうちに辞めた。

今朝は人事部長との面談があった。わりかしドキドキしながら、オフィスの前に行く。でも、別に煮たり焼かれたりするわけでもねえしな、と思い直す。朝、掃除をして朝礼を終える。これが最後の掃除と朝礼か。2ヶ月で辞めてしまうと、感慨もないのだけれど。

会議室に入って、部長と面談をする。部長は色白の太い黒縁眼鏡で、いつもニヤニヤとした笑みを浮かべていて気味が悪いなと思っていたのだけれど、ハラを割って話すと気持ち悪くなどなくいい人だった、なんてことはなくシンプルに気味が悪かった。まず、退職理由をつらつらと俺の口から述べたが、出てくる言葉は「社会はもっと厳しい」「新卒カードはお前には残ってない」「第二新卒は飽和してる」「ウチは待遇悪くない!(注:基本給17万円固定残業代45時間6万円)」などなど…。この白豚と話すのもいい加減疲れたなと思いつつ、ツラツラと反論していく。なんだこの時間。しかし、この部長、自社の良いところが全く言えないあたりが物悲しい。まあ、立場上こう言ってるだけで、良いとこなんて無いのがわかってるんだろうか。最後の方は「お前はその話し方を変えないと雇ってくれるところなんてほとんどない」と遠回しに言われたけど、「自分でやり方は考えるのでご心配にはおよびません」と答えた。しかし人生を「カード」みたいな基準で判断してしまう小物が部長を名乗れるんだから、意外と社会はチョロいんだなと思う。

荷物を返す必要があるので、現場近くの宿舎に戻って荷造りをする。全く感慨も湧かず、ただダルさだけが残る。荷物をまとめる気概が湧かない。ひとまず、横になる。ままならない。横になった先の、延長線上にある窓の外に向かって、ぼうっと語りかける。ままならない。

あまりにも。

ふと、マネージャーのハイエースに忘れ物をしたことに気が付いて電話する。明るい声。やっぱマネージャーは好きだ。すっげえ優しいし、歳も近い。この職場じゃなきゃ普通に友達になってたかもしれない。友とは、魂の近さを言うのかもなあ、とか適当に思いつつ、気合いを出して荷造りを淡々と終わらせる。やはり、人生はゴチャゴチャ考えるには短すぎるので、ノリで気合い出してさっさとやることやるだけである。

30分くらいしてマネージャーが宿舎に着いたから、下に降りる。「おまえ清々しい顔してんなあ!」と、泥やらが付着した服でそう言う。良い人だ。会社はどうしようもないけど、この人は幸せにやっていってほしいなって思う。適当に喋ってゲラゲラ笑って、そこから忘れ物の袋を受け取って、中に重い安全器具、高所であまり役に立たなかったハーネスを入れる。何もかも馴染む直前であって、感慨も湧かなくて、ただ淡々と過ぎる。退職した実感が湧かない。夢の中を地滑りで移動しているみたいな感覚。

ふと、自分は何か過ぎ去る物事への感慨に浸るために何かを辞めたりしていたのかも、と思ったりする。先週、今生の別れみたいな挨拶をしたインド人がドアの前を通りかかったので、トイレットペーパーやらをお裾分けする。ドント・ニードだから、やるよ。おお、センキュー。雑にグーパンかち合わせて、別れる。

まあ、近くの海は綺麗だった。そして、それだけだった。なぜ、たかだか現場配属1週間で辞めてしまったのかよくわからない。またなにより、とても荷物が多い。彼女に電話して駅まで迎えに来てもらうことにした。荷物の多さを説明すると「夜逃げみたいやな」って電話越しに笑われる。たしかに、夜逃げだ。会社からの夜逃げ。現在からの夜逃げ。ままならなさからの、夜逃げ。何かの変化の兆しは、劇的なものじゃなくて、バス停に大量の荷物を置いてバスが来るまでの時間、何もすることがなくて向かいのスーパーの看板をじっと見つめる、そんな時間の中にあるのかもしれない。

帰ったら、昨日の残りのカレーを食べよう。

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書くこととで輪郭が保たれる

書くことで輪郭が保たれる。いや、書くことのみで自分の枠組みが確定される。

ボーッとする。どんどんよくわからない考えが生成される。大体、そこにズズズ、と引き摺られる。その後、身体と意識が離れていく感覚になる。どんどん脳内だけが加速していく。身体が置いてけぼりになる。オブセッション、という英単語があるが、まさにそれ。囚われる。動けなくなる。

けれど、書くことでその楔が解ける。より正確に言うと、書くことでのみ解放される。魂が自由になる。身体の中にきちんと意識が入り込む。安定。何かを書いているときだけが、何よりも自由だ。どんなに苦しくったって、書くことで救われてきた。ノートに書き連ねる。ひたすらデジタルメモにズラーっと書く。自分の意識が、もう一度頭の上から降りかかって手足の先まで浸透していく感覚。きちんと一体化する。

ほかの人が何を喜びにしていきているのか、正直わからない。全然わからないかもしれない。感覚がどこまでおんなじなのかも、わからない。全然違うと思えば、意外と同じこと感じてたりするし、よくわからない。けれど、最近ちゃんと働いてみたり、いろいろやってみるなかで「恐らくこんな感じだろうな」というレベルで、数多くの人の喜びとかがうっすら見えてきた。けれど、それは白いベール越しになんとなくわかるものでしかない。

書くことでのみ、魂の中に芯がぶっ刺さる。膜なんてない。全部がビビッドで、全部生で、全部世界だ。そんな感覚。だから、まあ、自分の喜びのためにひとまずは全力を尽くすしかない。ほかの人のそれが全然わからなくて困った気分にもなるけれど、みんな大体似た感じで、意外と全然違っていて、その中で俺はメッチャ楽しくやるか、という気持ちだ。

サーキュレート

自分のサイクルが段々と分かってきた。

 

4月→元気/新しいことをやり出す

5月→普通

6月→まあ普通

7月→やってたことをいきなり辞める

8月→辞めたてだから超元気になる

9月→元気なくなってくる

10月→マジで身体が重くなる

11月→カス 無

12月→年末の浮かれムードで楽しくなってくる

1月→まあカス

2月→ホンマカス 終わってる

3月→暖かくなって元気になってくる

 

振り返ると、毎度7月になるとそれまでやってたことやめて、それから夏の浮かれた空気のまま楽しく過ごしていたら秋口寒くなってきてダルくなって引きこもる。そっからカスの冬を過ごして、春になってなんか新しいことやるかー!となって、また7月に辞めてる。

 

こんな感じ。なので今から冬に備える。冬つまんねー。

(2024/5/12)

さびしくない カネコアヤノについて

カネコアヤノ『さびしくない』のMVを見た。

世界がひっくり返る。息ができない。ドキドキドキドキドキドキが止まらない。ずっとドキドキドキドキドキドキドキドキしている。

カネコアヤノの乱れた前髪。歪みまくったギター。身体がズタボロになる。

好き?気が狂いそうになる。好きなのか?いや、すき、みたいな、可愛い感じじゃない。危うい。ヒトって、マジで惹かれると凄まじいことになるんだ。地獄の一歩手前でなんとか踏ん張れた。

神様だ。ずっとカネコアヤノの背中を追いかけ続けるんだと思う。ずっと。ずっとずっと。わーかっこいい!好きだー!めっちゃいいー!とかじゃない。ズズズズズズと、ドス黒くなっていく。引力。惹かれる度合いが常軌を逸すると、自分の輪郭が消えていく。

いい人生だなと思う。なぜか。カネコアヤノの音楽に出会えたから。以上。

ハイエースでマネージャーが死んだように眠っている

ハイエースの運転席で、マネージャーが死んだように眠っている。

俺はハイエースに乗っている。なぜこんな早朝にハイエースに乗っているのか。理由は不明だ。俺は今和歌山にいる。朝5時にハイエースに乗って出発した。そして今は山の中にいる。

隣で、インド人が死んだように眠っている。グーグー寝息を立てて。前と横を寝息によって包囲されている。山の中に、いる。人生はままならない。この、ままならなさに頭を抱えたくなるが、意外とどうにでもなるし、まあ全然いけると思っている。しかし、流石に2日連続朝5時に出発は厳しい。謎に和歌山にいるのももっと厳しい。眠い。頭が痛い。どうしてこうなったのだろう。

去年の7月。ハンパないワクワクが胸に詰まっていたんだけど、全部消し飛んだ。清らかさが全部黒くなっていく。淀みではない。色の変化。消えて、生成していく。俺は、本質的には飽き性であり、全ての物事に対して継続しようという気がおきなくなる。そして、一番テンションが上がるのが何かをやめるときだ。それは、新たな世界との出会いがあるから。でも、その局面、一風景だけが好きであって、それはただジャンキー、中毒者であるともいえるだろう。まあ、ずっとそのままでもいいんだろうけど、そうだと中々快適にはやっていけない世の中だ。辞めたい。何かを辞めるために、何かを始めたい。常に新しさだけを欲している。でも、その結果がハイエースだ。爆睡だ。前を向けば爆睡、隣でも爆睡だ。どデカいクレーンと、山、デカいハチ、カスみたいな直射日光、安すぎる月給、長すぎる労働時間。革命だ。俺は革命を起こしたい。しかし、窮地に追い詰められたときにこそ、人間は真価を発揮するのだろう。起きろ、真価!俺の真価!完全週休二日って聞いたけど、土曜日全部仕事!ウェエエ 

革命を起こしたい。そっと、ハイエースの中でマイナビ転職に登録する。マネージャーはまだいびきをかいている。隣のインド人は、いつの間にか横になっていて、そして寝返りを打った。俺は、ハイエースで横になるときに寝返りを打つのは大変そうだなと、素直に思った。

『さびしくない』

朝。カーテンを開けていた。だから、日光が直接顔にかかる。

研修旅行、二日目。絶対に寝坊ができない。スマホのアラームを四つ連続でセットして、モーニングコールの設定も完了。カーテンも開けておく。執拗なアラームとモーニングコールと日光。

これで起きられないはずがない。絶対に大丈夫。

朝五時四十五分くらいに目が覚めた。しかも、頭がシャキ、としている。気持ちがいい。

ふとLINEを見る。

 

「カネコ新曲!!!!」

 

カネコアヤノが好きな奴からの、LINE。

すぐさま公式Twitterを見る。

 

"4.17.2024 digital release 『ラッキー/さびしくない』"

 

脳内に濁流が駆け巡る。衝撃。なんと形容してよいのか判別の付かないドブが脳内で踊り狂う。興奮。そっと、安物のワイヤレスイヤホンを耳にあてがって、再生する。三重県のよくわからない場所の、ビジネスホテルで。

 

渦。濁った渦だ。灰色の渦の中に、カネコアヤノの声が響く。

 

動けない。ぴったり絡め取られる。どう聴いたって、彼女の歌声だ。"明日には皿洗いをしよう"

でも、今までの曲から感じたことのない不穏さが常に付きまとう。坦々麺とソフトクリームを一緒に食ってるみたいな。

"無理ない範囲で君の隣にいたいだけ"

浮いているみたい。前作の『タオルケットは穏やかな』は、完璧に脱色された水の流れだ。その流れのどこかに行き着いたはての、カネコがいる。ただ、立っている。

 

踊り出したくなるような。幸福そのものという名のイントロ。

 

"ダサい帽子を隠して電車に乗った"

 

世界の可能性に想いを馳せる。なんだか生まれたわけだけど、カネコアヤノの歌を聴ける生というものがある。ただ、それだけだ。さ「び」しくない。寂しくない、じゃなくて。さびしくないときは、絶対に寂しい。でも、それでいい。ずっと叫び続ける彼女がいる。穏やかな流れの中に、濁流の中に確かに潜む歌声とずっしりした言葉たち。不穏さからの解放。緊張からのカタルシス。いきなり晴れる。悩みに悩んだ末に、もうどうしようもなくなってどうなっちまんだろうとか思っていたときに、喉に絡まっていた痰がいきなりスッと飲み込めて、全部がほんの一瞬だけ、一瞬だけ晴れる、あの瞬間。悩みの軸足からややズレるところに潜む奇跡みたいな自由。突き抜ける。確実に。歌が突き抜ける。黒と灰色二色で混ぜた絵の具と、突き抜けるカネコアヤノの存在と温度。気がついたらずっと聴き続けている。ずっと。頭の細胞の切れ目に、ピタッと入り込む。液体そのもの。世界を塗り替える液体。絵の具ではないんだけど。渦そのものに、のまれる、とかじゃない。一緒に渦になる。うねり続ける。

生きるとは、うねりまくることだ!

"今夜は特に冷え込むね"

さびしくなくなった彼女に想いを馳せる。このうねりのなかで突き抜けて、さびしくないと歌うカネコアヤノについて。それは世界が蠢いているということであり、人生が動いているということであり、人間が生きていることそのものであり、ただおれとそれ、おまえだけになる空間と瞬間という何よりも絶対に尊いそれ、つまりは幸福ということだ。

"最近は 最近は さびしくない"

ま、ええかと思えるようになった

「限界まで追い込まねばならない」

「やれる限りやらねばならない」

こうした言葉で、今まで自分をやたらと追い込んできた。しかし、最近は全部「ま、ええか」である。

オンラインで申し込んだバイトを限界までやり込んで身体が動かなくなった。

自分で始めた店も、儲けを度外視して自分なりの正しさを追求するあまり首が締まり、潰した。

受験勉強も「せねばならぬ」の圧力をひたすら自分にかけすぎて逆に何もできなくなり、落ちた。

思春期から青年期にかけては、自分で自分を縛ることとの闘いの日々だった。最近やっと、そこから逃れられたように思う。「まあ、しゃあない。ええか。のんびり。」こんな感じで逃げられるようになった。二十代も中盤を過ぎてやっとこさこの結論に至るのもまあアホなのだが、若い者は往々にして視野狭窄で空回りするのだから仕方がない、まあええか、と思うわけである。いまはとある会社に新卒で入って、研修を受けている。まあシャチョーとかいう奴がやたらと熱血漢で、ものすごい根性論をブチかましていた。たぶん、二年前の自分であれば「こうせねばならぬ」の呪文で、自分を縛り付けひどいプレッシャーを感じでいたが、「まあこのおっさんもどうせ死ぬし。あくまでコイツの人生の話でしかないし。ある程度は従いつつ、自分の自由は絶対に確保したうえで働こう。まあ、ほどほどに。」と思える。自身の自由は自分で確保するしかなく、ありきたりな言葉だが自分の人生の責任は自分で背負うしかないのである。「尽くす」「神経症的に張り詰めて相手の為に頑張る」ことが自己目的化すること危険だと、魂が居場所を求めてフラつくことが一番ヤバいのだと、今までの経験によって結論付けることができた。いわば、悪いヤツ、ヤバいヤツ、潰そうとしてくるヤツ、色んな魑魅魍魎有象無象に対するワクチンを、ウニャウニャゴミゴミしたここ何年かの意味不明な日々の中で摂取した、とも言えよう。

読んでも大して面白くもないだろうことをつらつらと書いたが、まあ結論自分という魂の器にできることなどすげえ限られているのであり、他人がどう言おうとまあ方向性というか傾き具合、みたいなものはある程度変えられないのであり、危険からは適度に離れ、学べるところはそこそこに学んでおき、まあひとまず健康に生き、のらりくらり、チャンスが来ればとりあえず飛びついてバットを振っておき、巡ってこなくっても自分の腹の中に足場を組み込んで、そこで踏ん張ってそこそこ楽しく生きていけばよいのだ。

というか、気張れば気張るほど何も成すことができず、求めると得られず、自分を動かそうとするにつれ段々と何もできなくなる、ということはあるていど、真理だといえるように思う。というわけで、スーツを着ているときは気を張っているが、魂売れやと凄まれてもま、知らんわボケといいながら屁をこいている。

そして、こうして地に足を付けると、魂がどっしりと臓器の上に乗っかって寛ぎ出すのだ。

これが息をすること、つまり喜びそのものであるともいえる。