スルッと抜ける

何かを考えるときに、スルッと抜けてしまう。

たとえば、桃を食べるか〜とかかんがえる。すると、その対象から滑り落ちるようにして別のことに思考がシフトする。目の前にバトル漫画があって、読みたいと思う。読むか、と思った瞬間に、パソコンをつけてマヤ文明について調べたくなる。

何をしようにも、何か一つのことに取り組もうにも、全部がスルッと抜けてしまう。滑り落ちてしまう。だから、本を読むときには五冊ほど並べて読む。一冊読んで、めちゃくちゃおもしろくなってきたな、と大脳が加熱してきたときに、全く別のものを読み始める。哲学書を読んでいたら行政書士試験テキストを読み始める。スイッチング。切り替え。

だから、おんなじことをするより、禁欲的になるより、同時並行に色んなことがしたい。拡散し続けて発散したい。どこに行ってしまうのかわからないくらいに、ひたすらに薄く。そしてどこまでも広く。僕は中途半端の達人を目指す。下積み?職人気質?努力?なに言ってんだか。目移りすること、視点が一気に切り替わることに生のジェットコースターがあるんじゃないか。

と、いうわけで、今日も会計の本とTOEIC教材、エッセイ、小説、言語学の本を並べててきとうに読書して、思いついたことは友達にポンポンLINEしてノートに変な計画表を書いて、そういや特急白馬に乗らなきゃ!と思い立ってダイヤを調べたりする。全部スルスルと滑っていく。身を任せるだけ。ただ、流れる。

この先どこに流れ着くのだろうか?その壮大な答え合わせのために、滑り続けているのかもしれないな、と思ったりする。

言葉を写し取る感覚

何かを書いたり、喋ったりするとき、自分の前に膜があって、その上にマッピングしている感覚がある。

これを言い表すのは非常に難しい。何か言いたいことがあったとき、外堀から埋めるようにしてブロックとして言葉を配置する、みたいな感覚。その、膜がピンと張ってしまえば言語化は成功だと言える。何かが「言えた」という感覚は不思議だ。言ったら言えたことになるはずだが、言っても言えていないことは多々ある。けれど、言えたときは、透明な膜、板の上に、オブジェクトとしての、粘土としての言語を置いて、その置き石の波形によって漠然とした「言いたいこと」の輪郭が見えてくる感じ。魚群ソナーが、電波を発して、その波の乱れによって魚の居場所を探り当てるのと似たような感じか。

話は変わるが、なんでこんなに毎日何かが書きたくなるのだろうかと言えば、俺が存在した証を残したいからだ。毎日変化していく自分というものを、確かに形にしておきたい。なんだか説明のできない欲求が、そこにはある。

就活をする中で、やりたいこととか将来についてよく考える。でも、やはり、無理やり自分をまとめようとしたって、どうしようもないズレがある。過剰さがある。または、染みとも言えるだろう。存在から滲み出る、染み。そう考えると、俺はやっぱり、どう足掻いても、組織の中で出世を目指して、何年も何十年も同じところに居続けることが、どうしてもできない。

波に乗りたい。常に変化し続けたい。カオスに乗り続けることが生きることであり、不安を全て丸め込むことこそが生の存在そのものである、という風に考えている。丸め続けること。ただそのままの形を保持していくという、一見不安定に見える所作こそが、かりそめの安定状態を作り出す。生きることの指針とか、そういうゲームにやはり、毒されすぎないことが肝要だ。あくまでも、存在の染みから出発する。まあ、カネはどうにでもなる。日本はそこらへん色々どうにかなってるし。怠けることでも、逃げることでも、激務に身を任せることでも、他者との闘争に身を置くことでもない。存在そのものの脂っこさに向き合うという、一番ハードな行い。それをまずは行う必要がある。実は、やりたくもないことを嫌々やる方が、己の欲望に正面から向き合うことよりよっぽど楽であるような局面は多い。

なんだか自己啓発チックなことばかり言ってしまったが、たまにはいいか。別にやりたいこととか無理に探す必要もない。ただ、身体の質量と、そこから生じる重力に身を任せる。ある程度、そこに引っ張られてみる。

みんなを一気に宇宙に放り出したら、その浮き方は結構バラバラなのだ。

ゲストハウスに住んでいる

ゲストハウスに住んでいる。一週間になる。

昔、というか約一年ほど前までは旅することが好きだったので、ドミトリータイプのゲストハウスによく泊まっていた。二段ベッドで、他の人と相部屋の、貧乏旅行でよく見るあれだ。泊まる度に、その緩さにどっぷり浸かり、そして「いつかこういう安宿を転々としながらその日暮らしをしたいなあ」など、学生のときは思っていたものだ。

しかし、現実はただの無職が二段ベッドにスーツとワイシャツ引っ掛け限界状態で就活をしている、ただそれだけだ。緩さも楽しさもクソもない。こんな本物のその日暮らしが到来するとは思ってもみなかった。夜中には部屋のドアがバタンと開いて壮絶なゲロを吐きまくる輩がいて、ロビーで志望動機を作成していると乳飲子の赤ん坊が延々ギャン泣きしている(そもそもなんで乳児がいるんだ?)。日割りで如実にカネが減っていく焦りもハンパない。今日が退職日なので、あと二十二分後には正式に無職になる。ロビーの椅子に座るとバカみたいにケツが痒くなる。多分海を渡って鍛え上げられたダニが元気に俺のケツに齧り付いている。隣で外国人旅行者同士が「どこ出身?」「おれは台湾!」「おお!おれはインド!」「おお!」みたいな楽しげな会話を繰り広げている。その中で、俺は真顔でマイナビをガン見している。北海道はいいぞと、インド人が言う。確かに北海道はいいな。行きたいな。就職できたら。

ただ、俺が泊まっている宿は清潔なのが救いだ。どこもピカピカでロビーも広くて快適だ。ベッドも、外国人仕様なのか縦に長く、そして天井も高いので圧迫感はない。実際、面接から帰ってきてベッドに横になってカーテンを閉めたときには心の底から安堵感が湧いてくる。狭い枕元に工夫して小物を配置するのも楽しい。自分だけの城を作っている感覚だ。こう、色んな人が混じり合っている空間が、俺はやはり好きなのだ。喧騒を求めていると言ってもいい。でも、このままいっちゃえ、ゲストハウスでずっとやっちゃえ、という気には一ミリもならない。シンプルに普通の暮らしが、ひとまずしたい。でも、きっと、就活が成功したあとに、なんだか懐かしく思い出してしまうのだろう。もう内定出たところにとっとと決めてしまいたくなる誘惑に抗うしかない。一ヶ月。一ヶ月だけでいいから、とにかく耐える。耐えたらゲロも、ギャン泣きも、エグいダニともお別れできる。ただ、実はおれはエグいゲロを吐く奴とか、そういうのがあんまり嫌いではない。とりあえず、今週の金曜日にチェックアウトだから、その後のこと考えないとなあ。連泊したらベッドは同じなのかどうか、気になる。早くも愛着が湧いているみたいだ。困った。無職まで、あとちょうど十分。

(2024/5/28)

クソチャラい歯医者に歯を抜かれるかもしれない

「や、抜くしかないっす」

頭がチリチリで、髭が汚く生えた「先生」は俺にそう言い放つ。俺が横たわるベッドの頭の部分を、何の断りもなく「ガタン」と下げて、ヒ〜と一瞥して、そう言い放った。レントゲンとか何も見てない。撮った意味あるのか?大体、歯科衛生士がレントゲン撮ったら医者が出てきて一々説明してくれてるものだと思うのだが、レゲエ好きサーファーみたいな歯医者は何も見ずに「いやあ抜くしかないっす。てか今日抜きたいっすか?」と聞いてきた。なんだその聞き方。居酒屋か?生ビール今日ないんすよねみたいなノリで言うんじゃないよ。「いや、別にどうしても今日ってわけでは」と答えると「じゃ、今日は掃除して今度にしましょう」とチリチリ頭は言い放ちどこかへ消えた。

こいつに歯を抜かれるのか、俺は。海の家で焼きそば売ってる奴でもやらねえだろってくらいの爆発頭で髭もっさもさのチャラ男に歯を抜かれることになった。エグい。こういう絶妙な試練、マジで求めていない。初診料込みで4000円以上払ったのも地味に痛い。医者は変えられるけど、実はめちゃくちゃ腕いいのかもしれないしなあ。でも「いやマジバイブスっしょ」とか言いながら神経ごとブチっといかれるのもたまらない。このクソ絶妙な感じ。

今日は退職先に荷物を返却した。「郵送で送って」と言われたけど、マジで送料払いたくないなって思った。けれど、着払いでいいっすかとは中々聞けず、ウンウン唸った。直接返しに行った方が安いけど、ダルいし、交通費払ってなるし、かといってゆうパックは高いし、段ボールいるし、でも直接でもダンボールは必要だし、てか経費払えやって感じだけど微妙だし、請求すんのもなんかできないし、とはいえ着払いは揉めそうだし、もうどうすっかなあと思ってたら退職日の前日になり、てかずっと彼女の家に置いてるからそろそろどけたいし、でも歯医者行ってからじゃないと保険証返せないし、とか思って朝、どうしようかなあ、段ボール拾ってきたけど荷物全部入んないなぁとか言ってグズグズしてたらいきなり彼女が、「貸せ!」と言ってありえない速さで無理矢理荷物全部ちっせえ箱にぶち込み、袋入りの道具も中身全部出してぶち込みノーパソも梱包とか関係なくタテに突っ込んでちっさい段ボールピンパンきっちりに詰め込んでくれて「返しに行きたないやろ?こうやって詰め込めばええねん。てか着払いで送ったれ!」と言ってそそくさと出社の準備を始め、俺はなんだか笑ってしまい、そしてウッカリ惚れ直してしまった。こうして風穴を開けてくれる人は貴重であるし、こういう人がやっぱり好きだなと思った。

そして、今日は小学校からの友人が寿司と酒を奢ってくれた。マジで元気が出た。今まで奢りあったことなんてなく、キッチリ割り勘だったのだけれども、俺が無職になったと聞いた途端「なんかメシ食うか?」と誘ってくれ、寿司に連れて行ってくれた。冗談めかして「ごちっす!先輩!」みたいなノリでいたけれど、その優しさが骨の髄まで染み渡って、シンプルに泣きそうになった。いつも雑に接しており、ほとんど腐れ縁であったのだが、いざというときにそっと手を差し伸べてくれる優しさ。こうして、人にやさしくなりてえなと思った。し、寿司行くかと言ってくれたLINEが来たときは泣く一歩手前だった。だが、やはりここはそんな姿を見せてられねえので、「ゴチ!」のノリで通した。俺は、彼が将来もし万が一苦境に立たされたときは真っ先に何かをするだろうなと思う。別に、寿司を奢られた恩とかではなく、そういうものであるから。そういうもの。

おかげで、今日は彼女のおかげで退職先に荷物は返せたし、友達の優しさにほだされまくったし、ありきたりだが、まあほんと周囲の人間には恵まれてしかいないなと思う。きっと、レゲエ好き歯医者も、きっちりと俺の左上親知らずを抜いてくれるだろう。信じている。いや、きっとそうなる。きっと…。

(2024/5/27)

森、道、市場2024 ーカネコアヤノー

カネコアヤノのことを知ったのは、たしか2019年の夏だ。イラン留学から帰ってきて、冷房の効いた部屋で適当にYouTubeを流し見ていた。そこで、2018年の「森道」でのカネコアヤノのライブ映像を観たのが、初めてだった。

最初はちょっとイケ好かないと思っていた。この、ふんわりした感じ。ケ、ハマってたまるか。こんなん俺の好みど真ん中やけど、好きになんねえし。とか思いつつ、もっぺん動画を見る。ふむ。もっぺん観る。ふむふむ。いやあなるほど。もう一度…。気がつけば、ずっとフルで繰り返し試聴して、すっかり虜になっていた。なんとなくイケすかない感じに思っていたのは、あまりにも好みドストライクすぎて、謎の防御機制が働いていたのだと思う。

そこから、まあライブに行きCDを買いレコード買い東京の野音に行き武道館行きビルボードに行きやらで、とにかく聴きまくった。カネコアヤノの音楽は俺の肌にピタッと張り付くのだ。何もかもが心地が良い。俺が求めていた音がそこにある。俺が聴きたいと思っていた塊がある。前頭前野にぶち込みたいとまさに思っていた言葉の羅列が、くっついて離れない詞が、全てがある。

だから、今日は感慨深かった。初めてカネコを知った「森、道、市場」に参加して、生で聴くのか。そんな、感慨に浸ったりしていた。

 

 

 

 

 

 

ライブが終わった。浮いている。宙に。浮いている。そして漂白された。真っ白になる。頭の中を全部で満たされてしまい、そこから、求めていたものが分かってくる。頭でウンウン考えていたってわかんないもの。白く、脱色された自分が、茫然としていて、そこから湯気がゆらっと立つみたく、香りが立ってくる。

楽しい、良かった、ヤバかった、凄まじかった、神懸かっていた、ハンパなかった、エグかった、カッコよかった、イカしてた、とか、もう全部が通用しない。何もかも通用しない。このライブ以前にあった言葉たちはそれを言い表すには全て不十分であり、ただ、俺は何もなくなって真っ白になり、そして、ただ求めるがままのところを知ることになった。

芸術は、行き着くところまで行くと、人間の生そのものを根底から揺さぶってしまう。

劇薬だ。

魂の欠片を取り出して、そのままアンプで増幅させたら今日のライブになるのだろう。そして、俺が求めていたのは自分がひっくり返るほどの熱狂であり、揺さぶりで、全部ぶち撒けることで、ヤバいところまで行って、ありえない場所に飛んでって、見たことのないものをブチ抜いて見ること、それだけだ。ただ、それに踏み込むのはとてつもなく怖く、崖の手前で行ったり来たりを繰り返して、まあ、おれはこんなことがしたいんどけどね、と言い募っていただけだ。手前での、タップダンス。

あまりにも凄まじい、そして己の存在全てを"載せた"ありさまを見せつけられると、それを目撃した者は否が応にも自分の魂と向き合うことになる。それは気持ち良さだとか、感動を超えた、もっと根底に突き刺さるものだ。芸術の価値とはその揺さぶりにこそあり、そして、そこにしかないのだろうとも思う。

再びライブに行くかはなんだかわからなくなってきた。ひょっとすると、このまま、自分のまま突っ走ってしまうことになるかもしれない。咆哮だ。

カネコアヤノは、魂に向かって吼えていた。

ただただ、吼えていた。

 

自分の音を鳴らせ。ただ、それだけ。

(2024/5/26)

物運んでばかりの人生

めっちゃ物運んでる。ここ一年ずっと。

家から和歌山の宿舎に炊飯器やら大量の荷物を運んだ。そこから一週間足らずで、そこから全部荷物背負って大阪まで運んだ。そいで、そっから借りてるホステルまで一部荷物運ぶ。そんで、またそこから実家まで荷物運ぶ。

めっちゃ荷物運んでる。今日はちょっと泣きそうになって。おれなんでこんなに荷物運んでんだろ。背負って、降ろしての繰り返しだ。京都にいたときも三年で何回も引っ越しして、その度に運んで運んで運びまくった。もうこういうことを続けていくのしかないのかもしれない。

いっつも肩に重たいカバンを引っ掛けている。食い込む力に歯を食いしばりながら、ヒイヒイ言う。そうすることが、まあ根底では好きなんだろう。ただ、もう歯を食いしばるために歯を食いしばることはしたくはない。縛った先に、山が広がっていてほしい。横に、スーッと広がっていく山脈だ。

この二十代半ばという時間は、固まりかけのぬかるみのようだ。続く。どこまでもねばねばしている。ま、めげないことだ。

めげずに!

(2024/5/24)

推しってなんやねん

推しってなんやねんって思う。物陰から隠れて、好きな人のこと見守ってます、みたいな距離の取り方が気に食わない。

今の世の中の若い世代の、推し活とか、消費に根差した快楽摂取全般が苦手だ。もっと世界変えようとせえやと思う。上のジジイ共を舞台から引き摺り降ろして、最高に気持ち良くてハッピーな世界作ってこうや。いや、俺がそういう人と出会ってこなかっただけなのか?そうなのかもしれない。

俺は、人を好きになると自分がどんどん壊れそうになる。引力に引っ張られて、全部分解されていく。魂が渦を巻いて、ヘドロを撒き散らす。どんどんドス黒くなる。好きで好きで、白が右上になって、永野さんがペンタブに変身する。やから、推しってなんやねんって思う。推しです。キュンってしてます。みたいな。なんじゃそれ。

あと、消費はやっぱ虚しいと感じてしまうので、共感できないのもある。消費したって、鑑賞したって、ただそれって他人を見ているだけに過ぎない。根本的な渇きは癒えない。ずっと乾きっぱなしだ。生きているという事実そのものを世界に対してぶつけることが一切できない。俺はカネコアヤノが大好きだ。しかし、聴くたびにめちゃくちゃ悔しくなる。なんだかわからないが、物凄く悔しくなる。そして、いつか絶対直接会って、公式に会える立場になって、そして胸を張って話がしたい。俺はできると思っているし、必然的にそうなるものだ。

だから思う。推しってなんやねん。消費によって本質的に満足できるひとたちが、この世には結構多いのかもしれない。でも、ねえ。見てるだけじゃねえ。物足りねえなあ。好きって言うと、はらわたドロっと剥き出しにしている感じだけど、推しだったら紙に書いて提示している感じ。その、臓物を出していない感じに俺はひたすらムカついているのだと思う。

ナメやがって。俺はいつだって小腸剥き出しにしてやる。

(2024/5/24)