今日は会社の接待の飲みの場があり、上司、お客さん3人で飲んだ。
後半、上司の説教が始まった。そして、この人はどうしてこんなに暴言(説教の範疇を超えたシンプルな暴言も含まれていた)を吐くのだろうか、ということを考えた。
まず、40代も後半に差し掛かると「自分のスタイル」を誇りに持ち始める。全ては固定化されていき、その庭の中でしか話ができなくなる。説教とは、自分の庭から逸脱する物に対する防御機制である、といえるかもしれない。そして、その土地をずかずか荒らしていくのは若者であり、後輩たちである。それも、無邪気に。
客の前であったが、おれは先輩の説教に対して逐一筋道立てて応答を行なった。やはり、自分の行動原理を開示するのが対話の大前提であり、そこからの混ざり合いが止揚され結論に至る。そのダイナミズムを作り上げる行為こそが、対話であると考えている。しかし、どうやら上司は段々とイラついてきて、「お前はダメだ」「クズだ」などという言葉を連発しはじめ、あからさまに不機嫌になっていった。(録音して裁判すれば一発で勝てる発言なので、きちんとボイスレコーダーは回していこうと思う。爆弾は持っていると心が楽だ。)
そして、なぜこの人はお客様の前でこんなにシンプルな暴言を吐くのだろうかと考えたときに、説教は「自分の世界を荒らされたくない」という小童的態度から生まれるのだと合点した。世界に対する合理化だとも言える。守りたい。荒らされたくない。受け入れられない。自らのプライドがみみっちいほど、つまり低いレベルで自分の仕事に満足している人ほど、それを宝物のように守ってしまう。とても大切な、自分を形作る核心のようなものの発露が大して奥行きもない人生論であり、ただおべっかを遣うという小手先の技術に終始した「営業論」でもある。
セコくて小さい奴ほど自分の世界に固執し異物を排除したがる。「お前はもっとお客さんの話を聞いて場を回せ!学生相手にバーやってたらしいが、学生なんてバカばっかりだから身に付かなかったんだろう。」と言われた。
俺がどんな想いで、毎日どれだけ神経を極限まですり減らしてデカい穴を運営していたのか知らないくせに。どれだけ人生の全てをつぎ込んでいたのか知らないくせに。そして、そこから俺の足腰がどれだけガッチリと組み上がったのかにも気付けないくせに。お前は所詮、俺がメンツを立ててやって、さらに入社2週間の新入社員に説教して気持ちよくなってるだけの小童(こわっぱ)なんだということに、気付かないんだなあと、帰りの御堂筋で思ってしまった。おれがあの2年半でどれだけ毎日お客さんのことを考えていたのかお前は知らない。どれだけ突き詰めて考えて、どれだけ場を回して、苦しみのたうち回っていたのか。
「お前の為を思って」という、搾取を覆い隠すエクスキューズに騙されてはいけない。「君のためを思って言っている」「愛のムチ」等は全て暴力を隠蔽するための方便にすぎない。本当に相手のことを思い遣り、愛を持っている人々はそういったスタイルを取ることなど絶対にしない。それは自分の欲望を満たすためだけに他人をダシに使った人間が、彼ら自身を納得させ、認知的不協和に陥らないために言い聞かせているだけの呪文に過ぎない。
我々にできることは彼らの言葉を一切耳に入れないことだ。惑わされないことだ。そして、俺はそうするつもりだが、余力のある者は、彼らをいかにして引き摺り降ろすのか、もっとハッキリ言うといかに抹殺するのか、ということを考える必要がある。
人間にいいところとわるいところがあるのは、あたりまえである。どんな凶悪犯だって気が向けばゴミを拾ったりはするだろう。どんなに殴ってくる奴だってたまにはケーキを買ってきて頭を撫でたりする。人間とは揺らぎそのものである。「良い所もある」という物言いは人間が二面的であるということを再確認しただけであり、悪い面を免罪する理由たり得ない。
彼らに対しては、この世にそうしたアクションを起こしたケジメを取らせるのみだ。淡々と。