音が消える

書くときだけ音が消える。どんな雑踏も。どんな記憶も。全部過ぎ去っていく。全てが今になる。

 

書くときにだけ、音が消え去る。イマの鼓動だけが聞こえる。そういうとき、やはり生きているんだなと、感じる。書くときには音が消えるから。自分だけが動いている。

音楽は流しっぱなしだ

音楽は常に流しっぱなしだ。たとえば、部屋で音楽を流していて、風呂に入るとする。流すものはとんかつでもさとのとんかつでも、とさのもんかつでもいいのだが、流しっぱなしにしておくものなのだ。切ってはいけない。どこかで音が響いている。聞こえていなくたって、鳴っていることの素晴らしさ。律儀にスピーカーをOFFにして席を立つと、世の中に対してとてつもない悪さをしているような、そんな気分になる。世界から音を消したことに対する罪。

流しっぱなしにして、台所に立ったり、うんちをしたり、歯を磨いたり、生活する。生きることとはリズムだ。揺れとブレを行ったりきたりしていくから、そのバランスを取るために始めてしまった音をやめてしまってはいけないのだ。

だから、音楽は常に流しっぱなしだ。そのままで、僕は風呂に入る。泡で何も見えなくなったって、ずっとどこかで流れてんだからね。こんな愉快なことはない。

(2024.7.24)

歯を抜いた

上の親知らずを抜いた。結局、昔から行きつけの歯医者で、抜いた。気軽にスポッと抜けた。「足折れんくてよかったですね。」医者がそう言う。どういうことかというと、普通親知らずの根っこの部分は1本ないし2本なのだが、俺の親知らずは4本脚だったらしい。「こういうとき、途中で折れたりするんですけど、無事抜けてよかったです。折れるとやっかいなので。」それはお前の心の中に留めとけやとも思ったが、「よかったです。」としか言いようがなかった。いやーやばかったけどなんとか耐えた、みたいなノリで歯って抜かれるんだ。軽くね?ギリギリレポート間に合ったね、みたいに言われてもなあ。しかし、ニョキニョキ脚が生えた親知らずは、なんだかたくましかった。我ながら、誇らしい。

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そこからポートライナーに乗って神戸空港に行った。気分転換はしたいけど交通費はかけたくないとき、こうした移動は救いになる。海も見えるし気持ちがいい。別に遠くへ行けなくたって、いいもんな。休みの日は、片道数百円の家出で満足する。このくらいがちょうどいいのかも。

とはいえ、やっぱり遠くへは行きたいな。他人に休みの日を決められるのは腹が立つ。どんどん遠くへ。誰も見たことがない景色を見に。もっとめちゃくちゃに。でも、最近はそんなことをしなくたってもいいようにも思えてきた。ただ、そう思い込もうとしたときに、やはり違う、とも感じる。そして、今までの経験上、自分の中に生まれた違和感は宝石のようなもなので、守り抜かねばならない。そこから、しっかりと楽しくなることができるからだ。

最近のことについて考える。そして、さびしくない、とはどういうことなのかについても考える。遠くへ行けなくたっていい。

けど、やっぱり、遠くに行きたい。

ほどく

ほどく

ほどくために、歩く。夜、23時を少し過ぎた頃、家のまわりを、あるく。ただ、あるく。ほどく。色んなものをほどくために。絡まったり、まとわりついたり、乗っかったりしたものたちを、おろす。そのために、歩く。働いているとなぜ本が読めなくなるのか、というタイトルの新書が売れているらしいけど、悔しいが、働いていると本が読めなくなる。いや、ページを開くと読めるのだが、正確には「本を読む空気に自ら浸りにいけなくなる」あたりか。頭のモードが全然違う。

ビジネス、という言葉が持て囃される。成長、とか言われる。ずっと違和感がある。なんで、こんなに企業の売り文句に「成長」が使われているのだろうか?よく考えるとおかしな話だ。たとえばAからBに、子供から大人に成長する、とか言ったりする。始点と終点が決められている。その、時間軸と共に使われる成長という語が、単体で、ポンと使われているのが摩訶不思議でたまらなかった。「成長を実感できます!」いや、何の?何からどう変化していくの?これを見て変に思わないひとって他にいないの?しかも、一社や二社ではない。ほとんどの求人広告に「成長!」の文字が踊る。なんとも、珍妙な踊りだ。

そして、思うに、企業に入ったところで得られる成長実感などまやかしに過ぎない。ただ、組織内で利益を生み出す行動様式が最適化されたに過ぎず、自分の身体と合わないタスクができるようになることを「成長」という誤魔化しで覆い隠しているに過ぎない。たしかに、できなかった自分ができるようになることは嬉しいが、できた先にあるのは、資本家をより効率的に稼がせる為だけの身体だ。その成長は、おまえの魂にどれだけの質量を持っているのかと、問うてみたい。キャリアアップというレールに、本当に心の底から乗り、より多くの労働形態をこなせるようになることに無上の喜びを覚えるのであれば話は別である。しかし、そんなことなどなく、ただそう持て囃されており、そして疑ったこともなくその流れに、職歴を積み職能を増やし年収を増やす競争に延々と参加し続けることに組みしようとするのであれば、終わりのときにどれだけ満足していられるのだろうか、と案じてしまう。俺は、一部の人間を稼がせる為にこの魂と肉体、そして時間を一切使いたくない。ハードなほど成長できる、というまやかしに騙されてはいけない。力を持て余した若者に、効率よく、疑いなくエネルギーを発散させ、利潤を生み出す図式にスムーズに組み込ませるために、そういった、死んだ言語利用がなされている。精神と肉体を酷使し、ボゥっとした視界の中で朧げにほくそ笑むのは、ただ、使用者たちだけである。

と、いうわけで、人生を他人の為に切り売りしているものだから、疲労が溜まって仕方がない。あたりまえだ。自分のために生きずに疲れるのは、至極当然のことだ。

 

ただ、あるく。それだけで、だんだんと自分が戻ってくる。ぬるま湯でフリーズドライの味噌汁を解凍していくみたいに、どんどん戻っていく。染み出て、液体になる。前に進んで、息を吸って、横柄に散歩する柴犬を見ているうちに、身体のリズムが整ってくる。そして、何よりも、一通りの、できあいの言葉を、トンカチで釘打つみたいに使うのではなくて、きちんと心の中で粘土をこねるみたいにして、吐き出す。これが、多分俺が生きる道なんだなと、ふと思う。金を稼ぐのは苦手だ。きっちりするのも大変だ。報連相とかいって、必要もなさそうなコミュニケーションを取り、立場を意識して振る舞うのも、できてしまうが、まあ疲れる。全人類疲れるのだが、やはり、俺は本気でここから抜け出す道を考えている。高度に制度化され、綺麗に、考えずに、"ひとまず"生きられるこの世の中で、あえて傷まみれになって泥を啜りお腹が"グ"と鳴らすためにはどうすればいいのか、毎日考えている。

一年くらい本を読む時間が欲しいと思ったけど

じっさい一年くらい本を読む時間はあったわけだ。だが、もちろん、本を読んで英気を養っていたいわけではなく、ただそういう時間が欲しいだけで、実際与えられると、「まあ、なんだかなあ」という気持ちに、なってしまう。欲すれど、与えられた途端欲しくなくなってしまい、持て余してしまうのは世の常、人の習性そのものである。のだが、結局一年くらい海を眺める時間が欲しいとは思ってしまう。けれども、実際海なんてせいぜい十五分くらい眺めていると飽きてくるものだ。ケツが冷えてくる。ドライブに行きたくなってクルマを運転すると、一時間もしないうちに全てがタスクと化してしまう。右折はめんどくさい。そんなものだ。

なんだけれど、そういうことをなんとなくでやり続けたあとにくるふわっとした悦びとか、ゆらゆら脳裏を掠める甘さとか、まあ、それがたのしいってことのかもしれない。

実際、本当に一年間本だけを、読もうと思ったら読めたわけで、でも結局わりかし働いてしまった。白米にはおかずが必要だ。メリとハリ。同じことをし続けているように見える人間のなかには、実は結構な凸凹があったりする。そんな気がするから、まあ、積み上げられた書き物の中に溺れる、なんて妄想をしてしまうものの、しかし未だに自分の時間をどうやって使えば良いのか、皆目見当も付かない。しかし、振り返れば意外とのんびりしていた気もする。いまもう一度、何もない時間を一年与えられたら、やはり過剰に働いてしまうかもしれない。やはり、重労働はジャンキーである。頭と身体を酷使して、ふわっと何も考えないという状態に、多くの人間はなりたがっているし、明らかにハードな状況から離れるそぶりさえ見せず、留まり続ける人々の根底には、少ないながらも、そうしたジャンクさが潜むのだと思う。マックのポテトばかり食う段階からはサッサと卒業しなければならないわけで、自分のケツからコロッと捻り出した里芋を適度に蒸してむしゃくちゃ美味いって、食わねばならない。そして、労働者レベル98みたいな、キャリアアップが、市場価値が、ハードワークが、みたいなことを宣う人々の嘘臭さって、そういうところにあるんだな。自分の芋を食わないという、嘘臭さ。他人の為の、他人に与えられた仕事に悦びは存在しないわけであり、そして他人との終わりなき競争や、資本の無限の増殖や、借り物の言葉で塗り固められた自己啓発だとか、そういう、幼稚なじゃれあいからは抜け出さない。そして、今までの自分の時間の過ごし方を振り返って、反省した。だが、反省したとてまあやっぱりマクドナルドは美味しい。そこをどう乗り越えるか、なのだが、最近はもういいやと思ってきた。いや、諦めではない。むしゃむしゃ食ってるうちに、目付きだけはガチでその先を見据える、みたいな。身体の力は抜きつつ、ガンギマるかんじ。たぶん、それが正解。そして、正しい方に行こうとしてはいけない。ただ、頭と磁力だけはそちらに向けておいて、体から力を抜く。そうして、ふ、と流れていく瞬間に全てをかける。

ひとまず、やれることは通勤時間中に俯いたりせず、欲しくもない情報をむしゃくしゃ食いまくることではなくて。そう、ただ車窓を眺めること。100年前の明治の人々は、たぶん、みんな車窓を眺めていた。動いていく景色を見て、動いていく。

なぜおっさんは説教をしたがるのか?

今日は会社の接待の飲みの場があり、上司、お客さん3人で飲んだ。

後半、上司の説教が始まった。そして、この人はどうしてこんなに暴言(説教の範疇を超えたシンプルな暴言も含まれていた)を吐くのだろうか、ということを考えた。

まず、40代も後半に差し掛かると「自分のスタイル」を誇りに持ち始める。全ては固定化されていき、その庭の中でしか話ができなくなる。説教とは、自分の庭から逸脱する物に対する防御機制である、といえるかもしれない。そして、その土地をずかずか荒らしていくのは若者であり、後輩たちである。それも、無邪気に。

客の前であったが、おれは先輩の説教に対して逐一筋道立てて応答を行なった。やはり、自分の行動原理を開示するのが対話の大前提であり、そこからの混ざり合いが止揚され結論に至る。そのダイナミズムを作り上げる行為こそが、対話であると考えている。しかし、どうやら上司は段々とイラついてきて、「お前はダメだ」「クズだ」などという言葉を連発しはじめ、あからさまに不機嫌になっていった。(録音して裁判すれば一発で勝てる発言なので、きちんとボイスレコーダーは回していこうと思う。爆弾は持っていると心が楽だ。)

そして、なぜこの人はお客様の前でこんなにシンプルな暴言を吐くのだろうかと考えたときに、説教は「自分の世界を荒らされたくない」という小童的態度から生まれるのだと合点した。世界に対する合理化だとも言える。守りたい。荒らされたくない。受け入れられない。自らのプライドがみみっちいほど、つまり低いレベルで自分の仕事に満足している人ほど、それを宝物のように守ってしまう。とても大切な、自分を形作る核心のようなものの発露が大して奥行きもない人生論であり、ただおべっかを遣うという小手先の技術に終始した「営業論」でもある。

セコくて小さい奴ほど自分の世界に固執し異物を排除したがる。「お前はもっとお客さんの話を聞いて場を回せ!学生相手にバーやってたらしいが、学生なんてバカばっかりだから身に付かなかったんだろう。」と言われた。

俺がどんな想いで、毎日どれだけ神経を極限まですり減らしてデカい穴を運営していたのか知らないくせに。どれだけ人生の全てをつぎ込んでいたのか知らないくせに。そして、そこから俺の足腰がどれだけガッチリと組み上がったのかにも気付けないくせに。お前は所詮、俺がメンツを立ててやって、さらに入社2週間の新入社員に説教して気持ちよくなってるだけの小童(こわっぱ)なんだということに、気付かないんだなあと、帰りの御堂筋で思ってしまった。おれがあの2年半でどれだけ毎日お客さんのことを考えていたのかお前は知らない。どれだけ突き詰めて考えて、どれだけ場を回して、苦しみのたうち回っていたのか。

「お前の為を思って」という、搾取を覆い隠すエクスキューズに騙されてはいけない。「君のためを思って言っている」「愛のムチ」等は全て暴力を隠蔽するための方便にすぎない。本当に相手のことを思い遣り、愛を持っている人々はそういったスタイルを取ることなど絶対にしない。それは自分の欲望を満たすためだけに他人をダシに使った人間が、彼ら自身を納得させ、認知的不協和に陥らないために言い聞かせているだけの呪文に過ぎない。

我々にできることは彼らの言葉を一切耳に入れないことだ。惑わされないことだ。そして、俺はそうするつもりだが、余力のある者は、彼らをいかにして引き摺り降ろすのか、もっとハッキリ言うといかに抹殺するのか、ということを考える必要がある。

人間にいいところとわるいところがあるのは、あたりまえである。どんな凶悪犯だって気が向けばゴミを拾ったりはするだろう。どんなに殴ってくる奴だってたまにはケーキを買ってきて頭を撫でたりする。人間とは揺らぎそのものである。「良い所もある」という物言いは人間が二面的であるということを再確認しただけであり、悪い面を免罪する理由たり得ない。

彼らに対しては、この世にそうしたアクションを起こしたケジメを取らせるのみだ。淡々と。

老婆の鞄から茶がこぼれた

駅のイスに座っていた。TOEICの問題集を解く。あまりにも、つまらない。砂の上でペンを走らせているみたいだ。書きつけることはできない。最初はくっきりとしていた輪郭は、曖昧になる。埋まっていく。

丸テーブル、イス、イス、イスという配置だ。ふと、老婆が俺の隣に座った。座って、ペットボトルで茶を飲み始めた。いや、俺は気にもとめていなかったのだけれど、「ビチャ」という音で老婆が何かを飲んでいたらしいことに気付いた。ビチャ、と音を立てて液体が散らばる。床に散らばったあとの汁たちに目をやる。俺は飲んだ瞬間、こぼした瞬間をはっきりとは目撃していないのたが、鞄の中から直接液体が放出されたようにも思える。ひとまず、老婆は水筒さえも鞄の中にしまったようであり、平然とスマホをいじっている。

しかし、床には茶が転がっている。液体として。ベト、と。誰もしらない。誰も、鞄からビチャと何かが出てきたことを知らない。電車がダイヤ通りに運行されている。俺だけが、この液体のことを気にしている。茶、なのかさえわからない。よく見ると長いネギが落ちている。元からネギがあったところに茶が落ちたのか、ネギと共に茶がやってきたのか。日常。駅。普通の毎日。その中でビチャリと音を立てるもの。その音を聴くたびに、俺はほくそ笑んでしまう。