めちゃくちゃ疲れる

働いたあとに茶道の稽古に行っていた。

めちゃくちゃ疲れた。頭が全然回らなくて、繰り返して行っていた動作が全く出来なくなる瞬間があった。こんなにぐったり疲れた人間にはなりたくない。ずっとピンピンしていたい。だが、疲労が溜まると、こう自分の中の結晶が適当に析出される感覚がある。自動化されていた動作が、全て意識の元に上り挙動がおかしくなる。

調子が悪くなる。滑らかさが失われる。そして、何もピーキーなことが考えられなくなる。

本気で労働するとは恐ろしいことだ。全てが資本家の利潤の為に、己の人生が食い尽くされていく。そう、こうして何かを書いているときにも何かストップがかかりそうになるのだが、かからない。だから書くことは楽しい。ストップがかかって反芻しているときに人は楽しさを失う。踊りと流れと揺らぎの喪失。これこそが青春の終わりであり、喜べ無くなっていく過程にちがいない。

ドライブし、駆動され、つながっていく。繋がり流れていくことこそがやはり生きることだ。決められた時間に出社し、エサのように与えられる出世と昇級に生きがいを見出す存在にはなりたくない。

与えられたものに本当などない。ここ最近、ずっとそういうことを言っている気がする。どうやってこの魂を燃やし尽くせるのか?どうすれば今日が昨日とは全く変わっていくのか?親友の言を借りるならば、「朝起きた時と寝る前の自分が全く違う」状態に、どうすれば至ることができるのか、ということだ。同じことばかり、考えている。

経験を積む、という言葉がある。珍しく新自由主義的なことを言うが、自分の生の目的に合致しない経験とやらを積んでいるヒマは全くないと思う。自分で思い立ったことをやってみて、失敗するのであればまだしも、やりたくもないことを、他人の格言にとりあえず従ってやり続ける必要はない。我々の貴重な時間と引き換えに得た「経験」が、一体誰の懐に入っていくのかをよく考える必要がある。

働いてから、休日が自分のものに感じられなくなった。労働の為の休暇だ。もっと具体的に言えば、月曜から金曜日まで労働を継続する為に英気を養うために与えられた時間を、尻尾振って喜んでしゃぶり尽くしているような。そんな感覚。

ずっとこんなことしか言っていない。どうやって魂の声を聞くのか、とかそんなこと。働き始めてたったの4ヶ月。もう革靴を脱ぎ捨ててアフリカに宝探しに行きたくなってきた。幸先が悪すぎる。定住できねえ。

やはり自分は騙せない。青春の終わり、とか周りの人間のためにもちゃんと生きる、とか言ったが知らんわ。全部嘘です。すみませんでした。

生き急ぎます。

魂の鮮度

魂には鮮度がある。変化し続ける魂を真空パックするためには、文字にするしかない。

浮かんでくる風景、イメージ、香り。前頭前野を突き動かすビート。鼓動する心臓と息、貧乏ゆすり。リズム。今という時間。

その全てが、文字となって現れる。具現化する、される。自分が言ったことで塗り固められ、乗り越えられる。自己から抜け出すための、詩、ラップ。

書く。思い出してかく。でもある一定のラインを過ぎると、一切書けなくなる。生々しさが失われる。イメージが過去になる。全てが置き去りにされ、全ての意味においての古典と化す。

そうなる前に残さねばならない。二十代前半を残さねばならない。身体が順応していく。賃労働に。円滑なコミュニケーション、とやらに。煌めきとめまいが消えるまえに。自分の中のリズムが転調する前に。

いまが、その瀬戸際。残さねばならない。最後の、ひとしぼり。

(2024.8.7)

音が消える

書くときだけ音が消える。どんな雑踏も。どんな記憶も。全部過ぎ去っていく。全てが今になる。

 

書くときにだけ、音が消え去る。イマの鼓動だけが聞こえる。そういうとき、やはり生きているんだなと、感じる。書くときには音が消えるから。自分だけが動いている。

音楽は流しっぱなしだ

音楽は常に流しっぱなしだ。たとえば、部屋で音楽を流していて、風呂に入るとする。流すものはとんかつでもさとのとんかつでも、とさのもんかつでもいいのだが、流しっぱなしにしておくものなのだ。切ってはいけない。どこかで音が響いている。聞こえていなくたって、鳴っていることの素晴らしさ。律儀にスピーカーをOFFにして席を立つと、世の中に対してとてつもない悪さをしているような、そんな気分になる。世界から音を消したことに対する罪。

流しっぱなしにして、台所に立ったり、うんちをしたり、歯を磨いたり、生活する。生きることとはリズムだ。揺れとブレを行ったりきたりしていくから、そのバランスを取るために始めてしまった音をやめてしまってはいけないのだ。

だから、音楽は常に流しっぱなしだ。そのままで、僕は風呂に入る。泡で何も見えなくなったって、ずっとどこかで流れてんだからね。こんな愉快なことはない。

(2024.7.24)

歯を抜いた

上の親知らずを抜いた。結局、昔から行きつけの歯医者で、抜いた。気軽にスポッと抜けた。「足折れんくてよかったですね。」医者がそう言う。どういうことかというと、普通親知らずの根っこの部分は1本ないし2本なのだが、俺の親知らずは4本脚だったらしい。「こういうとき、途中で折れたりするんですけど、無事抜けてよかったです。折れるとやっかいなので。」それはお前の心の中に留めとけやとも思ったが、「よかったです。」としか言いようがなかった。いやーやばかったけどなんとか耐えた、みたいなノリで歯って抜かれるんだ。軽くね?ギリギリレポート間に合ったね、みたいに言われてもなあ。しかし、ニョキニョキ脚が生えた親知らずは、なんだかたくましかった。我ながら、誇らしい。

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そこからポートライナーに乗って神戸空港に行った。気分転換はしたいけど交通費はかけたくないとき、こうした移動は救いになる。海も見えるし気持ちがいい。別に遠くへ行けなくたって、いいもんな。休みの日は、片道数百円の家出で満足する。このくらいがちょうどいいのかも。

とはいえ、やっぱり遠くへは行きたいな。他人に休みの日を決められるのは腹が立つ。どんどん遠くへ。誰も見たことがない景色を見に。もっとめちゃくちゃに。でも、最近はそんなことをしなくたってもいいようにも思えてきた。ただ、そう思い込もうとしたときに、やはり違う、とも感じる。そして、今までの経験上、自分の中に生まれた違和感は宝石のようなもなので、守り抜かねばならない。そこから、しっかりと楽しくなることができるからだ。

最近のことについて考える。そして、さびしくない、とはどういうことなのかについても考える。遠くへ行けなくたっていい。

けど、やっぱり、遠くに行きたい。

ほどく

ほどく

ほどくために、歩く。夜、23時を少し過ぎた頃、家のまわりを、あるく。ただ、あるく。ほどく。色んなものをほどくために。絡まったり、まとわりついたり、乗っかったりしたものたちを、おろす。そのために、歩く。働いているとなぜ本が読めなくなるのか、というタイトルの新書が売れているらしいけど、悔しいが、働いていると本が読めなくなる。いや、ページを開くと読めるのだが、正確には「本を読む空気に自ら浸りにいけなくなる」あたりか。頭のモードが全然違う。

ビジネス、という言葉が持て囃される。成長、とか言われる。ずっと違和感がある。なんで、こんなに企業の売り文句に「成長」が使われているのだろうか?よく考えるとおかしな話だ。たとえばAからBに、子供から大人に成長する、とか言ったりする。始点と終点が決められている。その、時間軸と共に使われる成長という語が、単体で、ポンと使われているのが摩訶不思議でたまらなかった。「成長を実感できます!」いや、何の?何からどう変化していくの?これを見て変に思わないひとって他にいないの?しかも、一社や二社ではない。ほとんどの求人広告に「成長!」の文字が踊る。なんとも、珍妙な踊りだ。

そして、思うに、企業に入ったところで得られる成長実感などまやかしに過ぎない。ただ、組織内で利益を生み出す行動様式が最適化されたに過ぎず、自分の身体と合わないタスクができるようになることを「成長」という誤魔化しで覆い隠しているに過ぎない。たしかに、できなかった自分ができるようになることは嬉しいが、できた先にあるのは、資本家をより効率的に稼がせる為だけの身体だ。その成長は、おまえの魂にどれだけの質量を持っているのかと、問うてみたい。キャリアアップというレールに、本当に心の底から乗り、より多くの労働形態をこなせるようになることに無上の喜びを覚えるのであれば話は別である。しかし、そんなことなどなく、ただそう持て囃されており、そして疑ったこともなくその流れに、職歴を積み職能を増やし年収を増やす競争に延々と参加し続けることに組みしようとするのであれば、終わりのときにどれだけ満足していられるのだろうか、と案じてしまう。俺は、一部の人間を稼がせる為にこの魂と肉体、そして時間を一切使いたくない。ハードなほど成長できる、というまやかしに騙されてはいけない。力を持て余した若者に、効率よく、疑いなくエネルギーを発散させ、利潤を生み出す図式にスムーズに組み込ませるために、そういった、死んだ言語利用がなされている。精神と肉体を酷使し、ボゥっとした視界の中で朧げにほくそ笑むのは、ただ、使用者たちだけである。

と、いうわけで、人生を他人の為に切り売りしているものだから、疲労が溜まって仕方がない。あたりまえだ。自分のために生きずに疲れるのは、至極当然のことだ。

 

ただ、あるく。それだけで、だんだんと自分が戻ってくる。ぬるま湯でフリーズドライの味噌汁を解凍していくみたいに、どんどん戻っていく。染み出て、液体になる。前に進んで、息を吸って、横柄に散歩する柴犬を見ているうちに、身体のリズムが整ってくる。そして、何よりも、一通りの、できあいの言葉を、トンカチで釘打つみたいに使うのではなくて、きちんと心の中で粘土をこねるみたいにして、吐き出す。これが、多分俺が生きる道なんだなと、ふと思う。金を稼ぐのは苦手だ。きっちりするのも大変だ。報連相とかいって、必要もなさそうなコミュニケーションを取り、立場を意識して振る舞うのも、できてしまうが、まあ疲れる。全人類疲れるのだが、やはり、俺は本気でここから抜け出す道を考えている。高度に制度化され、綺麗に、考えずに、"ひとまず"生きられるこの世の中で、あえて傷まみれになって泥を啜りお腹が"グ"と鳴らすためにはどうすればいいのか、毎日考えている。

一年くらい本を読む時間が欲しいと思ったけど

じっさい一年くらい本を読む時間はあったわけだ。だが、もちろん、本を読んで英気を養っていたいわけではなく、ただそういう時間が欲しいだけで、実際与えられると、「まあ、なんだかなあ」という気持ちに、なってしまう。欲すれど、与えられた途端欲しくなくなってしまい、持て余してしまうのは世の常、人の習性そのものである。のだが、結局一年くらい海を眺める時間が欲しいとは思ってしまう。けれども、実際海なんてせいぜい十五分くらい眺めていると飽きてくるものだ。ケツが冷えてくる。ドライブに行きたくなってクルマを運転すると、一時間もしないうちに全てがタスクと化してしまう。右折はめんどくさい。そんなものだ。

なんだけれど、そういうことをなんとなくでやり続けたあとにくるふわっとした悦びとか、ゆらゆら脳裏を掠める甘さとか、まあ、それがたのしいってことのかもしれない。

実際、本当に一年間本だけを、読もうと思ったら読めたわけで、でも結局わりかし働いてしまった。白米にはおかずが必要だ。メリとハリ。同じことをし続けているように見える人間のなかには、実は結構な凸凹があったりする。そんな気がするから、まあ、積み上げられた書き物の中に溺れる、なんて妄想をしてしまうものの、しかし未だに自分の時間をどうやって使えば良いのか、皆目見当も付かない。しかし、振り返れば意外とのんびりしていた気もする。いまもう一度、何もない時間を一年与えられたら、やはり過剰に働いてしまうかもしれない。やはり、重労働はジャンキーである。頭と身体を酷使して、ふわっと何も考えないという状態に、多くの人間はなりたがっているし、明らかにハードな状況から離れるそぶりさえ見せず、留まり続ける人々の根底には、少ないながらも、そうしたジャンクさが潜むのだと思う。マックのポテトばかり食う段階からはサッサと卒業しなければならないわけで、自分のケツからコロッと捻り出した里芋を適度に蒸してむしゃくちゃ美味いって、食わねばならない。そして、労働者レベル98みたいな、キャリアアップが、市場価値が、ハードワークが、みたいなことを宣う人々の嘘臭さって、そういうところにあるんだな。自分の芋を食わないという、嘘臭さ。他人の為の、他人に与えられた仕事に悦びは存在しないわけであり、そして他人との終わりなき競争や、資本の無限の増殖や、借り物の言葉で塗り固められた自己啓発だとか、そういう、幼稚なじゃれあいからは抜け出さない。そして、今までの自分の時間の過ごし方を振り返って、反省した。だが、反省したとてまあやっぱりマクドナルドは美味しい。そこをどう乗り越えるか、なのだが、最近はもういいやと思ってきた。いや、諦めではない。むしゃむしゃ食ってるうちに、目付きだけはガチでその先を見据える、みたいな。身体の力は抜きつつ、ガンギマるかんじ。たぶん、それが正解。そして、正しい方に行こうとしてはいけない。ただ、頭と磁力だけはそちらに向けておいて、体から力を抜く。そうして、ふ、と流れていく瞬間に全てをかける。

ひとまず、やれることは通勤時間中に俯いたりせず、欲しくもない情報をむしゃくしゃ食いまくることではなくて。そう、ただ車窓を眺めること。100年前の明治の人々は、たぶん、みんな車窓を眺めていた。動いていく景色を見て、動いていく。