kanekoayano 大阪野音

うしろでずっとカネコアヤノの音楽が鳴っている。壁を隔てた向こう側にカネコがいる。信じられない。

『やさしい生活』のアレンジが流れる。それを、隣の二人組が口ずさむ。リハーサル。隠す気などなく、音が全て漏れてしまう。暑い。しばらくして、道路の反対側のキューズモールに行って、ソフトクリームを食べた。

ライブが始まるのは午後六時。開場の午後五時の三分ほど前に戻ってきて、整理番号が呼ばれるのを待っている。百五十六番。早いのか遅いのか分からないけれど、後方芝生席、前から二列目に座ることができた。右隣には男ひとりと、左隣にはバンドをやっているらしき大学生の二人組。

待つ。スマホの電源切って、一時間近くぼうっとする。色んな人がやってくる。一人できたり、二人で来たり、入ってすぐ写真を撮ったり、ニコニコしていたり、座って俯いていたり。各々が、自由にやってくる。バラバラの人間に見えるけれど、全員カネコアヤノの奏でる音を聴きに来ている。全員。一人残らず。

来る人々の流れに身を任せる。ゆらゆらと流れていく感じ。ふだん、仕事の細かいことばかり考えたり、嫌な奴のことを思い出してムカついたり、意味もなくスマホをいじってしまったりすること全部が、全くの無意味に思えてくる。好きな音を聴きにくる。それまで、じっと待つ。それでいいじゃん、何かも。それだけで。

定刻を十分過ぎてライブが始まる。バラバラだった開場が一気にキュッと縮まって、赤いドレスを着たカネコアヤノ一点に集中する。全員、彼女の音を聴きにきている。彼女が吠えて跳んだりするところを。全員が、一点を見つめる。その一点はもっと、カネコアヤノの背中の裏側まで続いている。

音が鳴る。『サマーバケーション』。去年、私生活が本当に最悪だったときにずっと聴いていた。"夏が終わる頃には 全部がよくなる" この詞にどれだけ救われてきたことか。そう、全部がよくなる。何かがマシになる、とかじゃない。全部が、良くなるのだ。

ライブのとき、色んなことを思い出す。普段日常では思い出さないような記憶。それが、なんとなく嫌だった。もっと目の前に集中していたい。けれど、多分、自分にとって彼女の音楽は日々の清算なんだと思う。色んなことを考えてきた結果を、振り返るための儀式。ライブは一方向なんかじゃないのだ。各々が、彼女の音を聴いて、自分の中から渦が生まれ、それが全体に波及する。舞台に立つバンドメンバー全員に伝わる。音が変わる。空間が歪む。互いに巻き込まれ続ける。

あそこに居た全員それぞれの生活、思考、魂がお互いに影響しながら大きなうねりになっていく。あの、目に見えない熱気、高揚。これこそがグルーヴと呼ばれるものの正体なのかもしれない。各々の生が抉り出される場としての野外音楽堂。それをまとめ上げるカネコアヤノという圧倒的存在とバンドメンバーたち。カネコアヤノが、バンドとしてのkanekoayanoの結成を日比谷で宣言したことの意味を鮮明にするライブだった。

バンドだ。平面だ。僕は、今まで彼女のライブに行って、引き摺り込まれ切れなかったし、自分の中に閉じこもってしまうことも多々あった。でも昨日は違う。面としての音楽だ。それが、バンドとしての音なんだと思った。

彼女達の音楽は凄まじい。日常の靄を全て、完膚なきまでに吹き飛ばす。「圧巻」の一言。一体どこからあんな力が湧いてくるのか。大地のうねりが全てカネコアヤノ、kanekoayanoを通過して発散されていく。ライブが終わったあと、身体の細胞全部が入れ替わる。その場に居合わせた者全員の人生を一変させてしまう凄まじさ。エモい、とか凄い、なんかじゃない。凄まじい。何千もの観客を、その存在一本で黙らせるという凄まじさ。人間が社会を形成し、他者と生きていくことの奇跡がそこにはある。

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個人的な話だが、何もかもが終わってしまったように感じ、ずっと冷たい部屋にいたような日々をここ一年ほど過ごしてきた。だけれども、日比谷でバンドとしてのkanekoayanoの結成を聴いたとき、まだ何も終わっちゃいないことに気づいた。

久しぶりの人と会った。思い出話をした。濃縮された日々は、確かに戻ってこないかもしれないけれど、バンドとしての変貌を遂げたカネコアヤノを見ていると、まあ、今からが始まりなんだなと、しみじみ思う。また、どこかで、ではなくて、京都で集まって酒を飲もう。そんな日々を作るために。頑張るぞ。

俺の地元の大阪で、kanekoayanoの音楽はずっしりとした一つの面、として、森ノ宮のあの空間で鳴り響いた。その事実を、俺は大事に大事に、記憶し続けるだろう。ありがとう。

(2024.9.16)

傾く

例えば道を歩いているとして、真ん中にカラーコーンが出てくる。どうやって避けるか?右か、左か。果ては股の下に通して直進するのか。

そういうときは、なんとなく惹かれる方へ曲がっていく。みぎ、だな。直前になっていや、左の方が正しい、みたいな。何かを選択するときの「エイヤ」の感触。それは好きな人への告白を風呂上がりにふと決意したときとか、道を間違えた後にサッとUターンしてみたりする瞬間と大差がない。何も考えていないのだけれど、何故か合っていると直感できる。そして、何よりもキモチがいい。スーッと、流れていく。そうそう、これこれ。これなんだよな。あ〜気持ちいい。身体の中をぬるま湯がツツーッと通り抜ける。あの、感覚。

これが、最近消えていた。だけどまた戻りそうだ。身体が引っ張られる方へ、素直に身を任せてみる。意固地とかひねくれ、偏屈さを捨てて、ただ飛び込む。そうするとスルリと流れる。シルクの上を滑り続ける。

お金とか、周りの目とか、将来性、みたいな概念やらなんだか変なものたちのことを考えて何かを決めるという、「賢い決断」というものは実は最も愚かである、と敢えて断言してみる。

定量的、論理的に正しくても、僕たちには肉体があり、どうしようもないクセにその生が運命付けられているのだ。所詮は生き物だ。重力には逆らえない。重さ、しなり、そのめんどくささを抱えて生きていくしかない。一周回って、という留保は付けておくが、ぼくはやはりどうあがいたって、気持ちが良い方向に流れていく。

身体が傾く方へ。魂の求めるままに。

そして、自分が行き着くべき場所へ。

2024.9.14

広島を走る

出張で広島にやってきた。会社の経費で新幹線に乗り、会社の経費でレンタカーを借りて、走った。岡山から広島の県境、国道二号線に「広島県」「福山市」という標識が聳え立つ。

即座に思い出す。来たことがある。大学二回生のころ、京都から今治までママチャリで行ったとき、自転車でこの地を通った。そして、写真を撮った。

 

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京都から愛媛までママチャリで行った話〜三日目(前半)〜 - お前は何がしたいんだ

その地を、セットした髪で、スーツ着てクルマに乗って走っている。何がしたいかわからず、ひたすら衝動を振り撒いていた、六年前。野宿して、ママチャリで移動していたのが、いまやアパホテルに泊まって、新幹線に乗って、そしてモノを売るためにだけ移動している。

むかし、軽バンに乗って西日本をグルグル巡ったことがあった。何もあてもないまま、国道二号線を走り、岡山で車中泊し、倉敷の美観地区に寄って、広島、山口、そして果ては鹿児島まで。

夜、広島のアパホテルに泊まる。ラーメンを食べに外に出て、ぶらぶらする。

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まぶしい。毛虫みたいに路面電車がこちらへ伸びてくるのが愉快だ。

少し昔、広島でヒッチハイクをしたことがあった。とにかくカネがなかった。けれどどこかへいきたかった。正確には、博多からヒッチハイクして、広島までやってきた。夜、このあたりをぶらついていたことをなんとなく覚えている。宮島の辺りから、お兄さん二人組に乗せてもらって、駅前で降ろしてもらった。あの、不安。何がどうなるのか一切分からないドキドキ。心の底から、神経の先端から自由を吸い尽くしていた。駅前をうろつき、古本屋に行ってみたりして、そして何も食わなかった。そのときの眩しさと、今感じるそれとは質が全く異なる。たしか、どこかくら寿司の前で四時間くらい立ち尽くして、夜中に拾ってもらったはずだ。

別れた恋人と広島に旅行に来たことがある。店を休みにして、二人でいきなりやってきた。お好み焼きを食べた。原爆ドームを見に行った。ちょうど、元気がなくなりかけていた頃だった。ただ、なぜ広島に行ったのか、今となってはよくわからない。

この間、カネコアヤノのライブを聴きに広島に来た。パルコのあるあたり。今日歩いても思い出す。周りには、何人か広島出身のひとがいた。

大阪からニョキニョキ伸びていく二号線は、理由はないけれどどこかへ行きたくてたまらなかった数年前の自分の受け皿になっていたのだろう。山陽に、受け止められていたと言っても過言ではないのかもしれない。移動の、喜び。別種の逃避。動き方には、様々な角度がある。

あてもなく、行きまくっていた過去が、なんとなく今に繋がっていく。ただ、工場で製造されたものを売るためだけに移動しているイマは、やや滑稽だなとも思う。魂を薄く広げて伸ばしていた、拡散の日々は、今にどう響いているのだろうか?

あてもない移動が嫌になって、理由が欲しくなって、今の仕事に就いた。理由が、どうしても欲しかったし、欲しかった未来は今手元にある。

別にモラトリアムを美化したいわけじゃないし、働いているイマから昔を振り返って感傷に浸りたいわけでもない。ただ、あの移動の日々が今にどう繋がっているのか、考える。何かがどうにかなったのかどうか、正直のところさっぱり分からないからだ。

何かを言い表すために生きている

お金を稼ぐとか、人にえらいと褒められるだとか、したい。大きな家に住みたいとか、美味しいものをたらふく食べたい。だが、究極的に言って、何でもかんでも自分で生み出したい。どこに針を刺すのか、ということ。どこに軸足を置くのか。それがはっきりするだけで、正しい呼吸の仕方がわかるようになる。自分の息の吸い方がわからない人が、あまりにも多い。そういう人々が。お腹の辺りに気持ちよさを持ってきて、ただ息を吸う。息を吸って、吐いて、生きられることのの心地良さ。気持ちよさをきちんと感じられるようになるために、書いて刺す。ざっくりと地盤に、脚をくくりつける。メインとサブを決める。間違っても、本番ではないものをマジだと思い込んではいけない。どうでもいいことを笑って飛ばしてしまうために、在処を決める。

そのために、刻みつける。毎日。毎日。

距離

距離がある。この人とは連絡を取れるかなあ、という時間の距離。連絡を取り合ったり、することへの賞味期限。なんとなく連絡が来たり、取ったりするけれど、いつしかそういうことをしなくなる臨界点のようなものがある。そんな気がする。

だいたい一年。多分そんなもの。それを過ぎると、お互いに「なんかやめとくか」みたいな暗黙の了解が生成される。距離を超えて生まれる、了解。そもそも了解が明確になされるのか、という問題はさておき。

その人がいなくなっていく。考えなくなる。ふと、思い出しても、灰色の写真の中に押し込められている。あるけれど、ない。そういうもの。終わってしまったがために取り出せなくなる。箱にしまったおもちゃを遠くから、眺めた続ける。

そんな人々を地層のように織りなして生きていっている。バスを待っているときとか、帰り道にキャッチを避けて歩こうと決断した瞬間に、少し思い出すくらいの。どこで何をしているのかはわからない。何を食べて、どんな人と冗談を言い合っているのか。でも、まあ人ってそんなに変わらないかもしれないし、案外そのままであったりする。そして、時たま、この法則が破れることだってある。冷凍されていたはずの人が、何年も昔のまま、そのまま話しかけてくれたり。そうした積み重ねが、自分の身体に積み重なっている。

オブセッション

とらわれている。思い付いた複雑な綾を形にすることに。ずっととらわれている。全部をポーズさせておきたいし、複雑なことはそのままにしておきたい。ずっとよくわからないままに。曖昧な状態で。囚われている。中間でホールドし続けることに。異様なまでのこだわりがある。

どうしても、気になってしまう。とりあえずのブラックホールだ。一旦存在するだけの宇宙だ。それを形にしたい。どうしても、表したい。

モノを作りたい。食べるんじゃなく。ただ、楽しみにして終えるのではなく。結晶にしたい。魂の傷跡だ。そうした火照り。カネコアヤノのレコードを聴いている。傷まみれになる。どうして惹かれるのか。それは、ずっと生き続けているからだ。うたをうたうことじゃない。

それは、吠え続けることだ。喋るんじゃない。吠えることだ。書くんじゃない。吠える。

一年が終わる。よくわからなかった一年を終える。気が付いたら時間が過ぎている。よくわからない。帰り道、駅に怪しい男が何人もたむろしている。立って、鋭い眼光で道ゆくひとを睨みつける。こうした人間が破滅への使者なんだろうな、と思う。日常の隣では魔物たちが口を開けてまっている。そして、それは人の形をしていないのかもしれない。

 

夜、歩く。ニケツした女子中学生がジャマ!と言いながら去っていく。ム、としかけたがなんだ、子供じゃないか、と思い直す。しかし、気付いている。そう、思い込もうとしているのだ。シンプルな話。

クソガキ、ウゼえ。

毎日思い込もうとしている。一旦ホールドしようとしている。レコード盤はクルクル回る。去年の夏以来の、レコードだ。たわんで回る。ノイズが入る。むかしだったら、すごく嫌な気持ちになっていた。けれど、まあいいか。こう、なったんだしな。

来年から、誰かと一緒に暮らす。他のもの、例えば瞬間湯沸かし器だとかはさておき、ぼくはこのガビガビとノイズが入る、大切なレコードを持っていくだろうと思う。クルクル、回る。愉快だ。

(2024/8/29)

 

めちゃくちゃ疲れる

働いたあとに茶道の稽古に行っていた。

めちゃくちゃ疲れた。頭が全然回らなくて、繰り返して行っていた動作が全く出来なくなる瞬間があった。こんなにぐったり疲れた人間にはなりたくない。ずっとピンピンしていたい。だが、疲労が溜まると、こう自分の中の結晶が適当に析出される感覚がある。自動化されていた動作が、全て意識の元に上り挙動がおかしくなる。

調子が悪くなる。滑らかさが失われる。そして、何もピーキーなことが考えられなくなる。

本気で労働するとは恐ろしいことだ。全てが資本家の利潤の為に、己の人生が食い尽くされていく。そう、こうして何かを書いているときにも何かストップがかかりそうになるのだが、かからない。だから書くことは楽しい。ストップがかかって反芻しているときに人は楽しさを失う。踊りと流れと揺らぎの喪失。これこそが青春の終わりであり、喜べ無くなっていく過程にちがいない。

ドライブし、駆動され、つながっていく。繋がり流れていくことこそがやはり生きることだ。決められた時間に出社し、エサのように与えられる出世と昇級に生きがいを見出す存在にはなりたくない。

与えられたものに本当などない。ここ最近、ずっとそういうことを言っている気がする。どうやってこの魂を燃やし尽くせるのか?どうすれば今日が昨日とは全く変わっていくのか?親友の言を借りるならば、「朝起きた時と寝る前の自分が全く違う」状態に、どうすれば至ることができるのか、ということだ。同じことばかり、考えている。

経験を積む、という言葉がある。珍しく新自由主義的なことを言うが、自分の生の目的に合致しない経験とやらを積んでいるヒマは全くないと思う。自分で思い立ったことをやってみて、失敗するのであればまだしも、やりたくもないことを、他人の格言にとりあえず従ってやり続ける必要はない。我々の貴重な時間と引き換えに得た「経験」が、一体誰の懐に入っていくのかをよく考える必要がある。

働いてから、休日が自分のものに感じられなくなった。労働の為の休暇だ。もっと具体的に言えば、月曜から金曜日まで労働を継続する為に英気を養うために与えられた時間を、尻尾振って喜んでしゃぶり尽くしているような。そんな感覚。

ずっとこんなことしか言っていない。どうやって魂の声を聞くのか、とかそんなこと。働き始めてたったの4ヶ月。もう革靴を脱ぎ捨ててアフリカに宝探しに行きたくなってきた。幸先が悪すぎる。定住できねえ。

やはり自分は騙せない。青春の終わり、とか周りの人間のためにもちゃんと生きる、とか言ったが知らんわ。全部嘘です。すみませんでした。

生き急ぎます。