すこぶる元気だ

すこぶる元気だ。いまはなんでもやれそうな気がしている。こんな感覚は本当に何年振りだろうか。ずっと身体が軽い。このまま、いけそう。時間の感覚が遅い。本当にいつぶりだろう。

毎日水が飲める。それだけでありがたい。どんどん感覚が戻ってきている。しばらく、毎日自分の感覚を書き残してみる。

明日は、もっと勉強する。ちゃんと書く。会社に全然身が入らない。吉野家で食う唐揚げだけが楽しみだ。1月まで持つかそもそも怪しくなってきた。もう、なんでもよくなってきた。マジでなんでもできる。傍から見ていたらなんだこいつ、となるのだろうけど、本当になんでもできる感覚なのだから仕方がない。この感覚はヤバい、と思ってブレーキを踏んでいたけど、ここはそのままで進んでいく。

ここで一点集中すると燃え尽きるから、幅広くハチャメチャにやりまくるのがちょうどいい。そして、重要なのは変にセーブしないことだ。何もかも気持ちよくやる。それが一番大切だってことに、ここ5年くらいで気がついた。ふと、出町柳のことを思い出す。あの韓国料理屋はまだやっているだろうか?あそこで住んでいたときのことを、きちんと文字にして残す必要がある。リミットはすぐそこまで来ている。

明日からもっと書くかあ。全部出し切るぞ。

暑くなったり(日記| 4/28)

日記を書く。

仙台から飛行機に乗って、友人と飲んだ。お金の管理をする為にダイソーでペンとノートを買う。めっちゃ顔見てくるおっさんが居てすげえ腹が立ったけど、コイツは空気だと思ってやり過ごす。今更気が付いたが、一々他人に腹を立てていたりしたら人生の時間がどんどん減っていく。自分に得が無いのであればさっさと切り替えるのがよい。

仙台ではモーニングに行って、ペンとノートを買い、マクドに行った。今朝改装した店舗らしく、先着70名に景品が渡されるらしかったが、貰えなかった。え〜と思っていたけど、フロアには30人以上いるように思われたので、それはそうか、思う。

椅子が結構快適で、作業が捗るなと思ったのも束の間、ダイソーシャープペンシルは芯がボキボキに折れそしていきなり詰まって何も書けなくなった。購入→故障に至るまで恐らく20分も経っていない。やっすい既製品の恐ろしいライフサイクルを目の当たりにした気分になった。かなりイライラしながら、何も書けなくなったシャープペンシルをとりあえずリュックにしまい、スマホで作業する。計算とか全部自動でやってくれるので、こちらの方が便利だ。表面上悪いことが起きても、それは新たな変化の契機だったりするのだなあ、となんとか、気を取り直す。出費のバランスがおかしなことになっていたので、勘定を細かく分けて、1日あたりの可処分額を設定し直す。なんとか毎日、記録をつけていく。

昨日はkanekoayanoを聴いてしまったわけで、空港でぼんやりとこれからどうしていくか、ということを考える。この、薄い膜に包まれた毎日。生きている実感のなさ。なまじ最初に自営業を味わってしまったのが良くないみたいだ。今の会社に不満はない。驚くほど働きやすい。本当に。こんなに環境と待遇が良い職場は他に見つからないのでは、という気がしてくる。これから労働者としてきちんと生きていく為には、ここでどっしりと腰を据えて、キャリアアップを目指していくべきだ。当たり前だけど。もっとスキルを身に付けて、より待遇と裁量のある場所へ。だが、どうしてもそんな未来に興奮できない。滾るか否かで意思決定をしようとしているのが本当にアホの極みやなと思うだけど、もうこれはどうしようもないことだ。もっと色んな人に出会いたいし、もっと自分の頭で動きたいし、そして世界の輪郭にリアルに触れたい。仮に会社組織の中で裁量を得たとしても、それはその枠内のみでの話だし、ずっとそのことに違和感を覚えていた。違うんだよな。それじゃない、欲しいのはもっと新鮮で眩しいものだ。

きちんと働き始めてはや2年が経過しようとしている。あまりにも早い。まず、組織はいいものだ。心が安定する。楽しい。ひとりじゃできないことが沢山できるのも良い。全体リソースを利用して、個人の力を超えたことを成し遂げることができる。人と一緒に何かをするのは、本当にいいものだ。けれど、それは単なるシステムの一員としての安定感に過ぎず、やはり、もっと単純に言うと俺はより刺激が欲しくてたまらないのだと思う。そして、それはベンチャーとかに転職して得られるものではなく、多分一旦自分ひとりで飛び出してみないと手に入らないのだ。時間は有限だし、まだ20代なので実現したい生き方があるのなら、早いに越したことはない。別にそれはやり直しが効くから、とかそういうのではなく、どうせそうなってしまうのであれば早い方が幸福の総量は大きくなるからだ。

23歳で飲食店を始めたけど、あの恐ろしいほどの向こう見ずな勢いは流石にもう無い。そして、若いとやり直しが効くというのも事実で、実際俺はまたやり直そうとしている。間に2年挟んでもまだ20代だ。色んなことがあり、また違う人間になった。そして、出口を決めてしまおうと思った。俺は修行とかいう概念が全く受け入れられないタイプで、思い立ったことは2秒後には実行に移したい。また、勉強というものは原理的にいくらでも継続可能なので、それを意識的にどこかで断ち切る必要がある。あと追い込まれないと力が出ないというのもある。前からぼんやりと考えていたけれど、1月末で会社をやめることにした。一連の意思決定は仙台国際空港国内線出発ロビーで行ったものであり、そしてなんだかスッと腹に落ちる感覚になった。そう、別に大それた夢を実現しようとかそういうのでは全くなく、なんだか俺にはこうするしかないのだ、ということをただ単純に分からされたのだなということであって。今はまだギリギリ軽く動ける。ここで一気にいくしかない。前は勢いしかなかったけど、今はもっと上手くやれる自信がある。

多分、というか確信的な話だけれど、kanekoayanoのライブに行って、そこの音がもう響き渡ってどうしようもなくなってしまったのだ。『WALTZ』の最初の轟音が血液みたいに身体を巡っている。

俺は、音楽そのものに感動したことは数多あれ、初めて音源で聴いて涙まで流したことが今まで無かった。けれども、リリースしてすぐに聴いた『石と蝶』によって、頭の中からじっくりと絞り出されるみたいにして涙が溢れ出てしまった。色んなことがありながら、なんとか今の場所までたどり着いたカネコアヤノに俺はどうしようもなく吸い寄せられている。その生き様と魂が全部音になって出てきてしまっているという事実の持つ凄まじさ。『石の糸』が出たという事実そのものに、この世が持つ喜びが詰まっている。俺は、心底そう思う。

変化はふとした瞬間にやってくる。風が吹く、とも言えるもの。今確かに、流れている。怖い。けれど、ただ進むしかない。大事なのは、自分がどう思うか。本当に単純に、ただそれだけなのだ。(4/28) 

動いた

なんだか全てが動いた気がする。kanekoayano、ありがとう。こうしている間にも涙が溢れる。

冷凍保存されたみたいな2年間が、全部動いた。ゴロン、と音を立てている。読んでいる人には意味不明なのだろうが、これは完全に俺の問題だ。バンドだった。変わっていた。本当に変わった。こんなにも別の音が鳴ることなんてあるのか。

あんまり意味がわからないかもしれないが、2年前あたりからカネコアヤノが音楽を辞めてしまうんじゃないかとすごくヒヤヒヤしていて、薄い氷の上を歩いているみたいに過ごしてきた。けれども今日、この音は永遠に続いていくんだなと確信した。まず、そのことが嬉しくてたまらない。

時間が巻き戻った。二度と来ないと思っていた煌めきの方へ。固着したネジがいきなり緩む。筋肉がほぐれる。動いた。動きそう、じゃない。

動いた。

浮いている

電車に乗る。正確に分解すると、立っている。

通路の間で立っている。他が座っている中で、自分だけが立っている。

ふと外を見る。スーッと、滑るみたいに風景が流れていく。浮いているな、と思う。そして、このことがとても素晴らしく思えてくる。高速で動いて、周りの景色が全部流れていく。愉快だ。おもしろくて仕方がない。浮いている。流れている。高速で。多分、動こうとしているから、流れが愉快になっていく。内面が環境と連動している。軽い。春の、軽さだ。どこまで浮けるか。

ひとまず、新快速より速く。

過ぎていく

気がつけば時間が経っている

目を閉じて、水の中に潜って、ぷはっと水面に上がるみたいな毎週だ

メール打って見積もり作ってめんどくせえ客にイラついたりすると、1日がおわる

なんだこれ?なんだこの1日?あたまがおかしくなりそうだ

 

気がつけば時間が経っている。毎日が月末だ。気がつけば月末になっている。

なんでみんなそもそもオフィスにいるのだろうか?理由がわからない。ラディカルなのは、よくない癖だ。

けれど、理由が無いことに耐えられない。なんで?なんでここにいるんだ?

 

過ぎていく いや、過ぎるというか、消えているといった方が正しい

 

ただ、消えていく。気がつけば消えて、次の月になっている。そのうち夏がくる。そして、冬になる。寒くなる。しまったばかりの上着が、必要になってくる。

軽い

軽い。楔から解き放たれた感覚だ。難しい。ずっとふわふわしていた。たとえば、ずっと好きにやっていた人間が、一度つまずくとそこからやり直すのは結構難しい。今までの自由さのアンチテーゼとしての縛りを課してしまった場合、そこから勝手に抜け出すのはほとんど不可能に近いように思う。自分で自分を縛るだけの状態。

上記の状態が2年近く(長いな…)続いていたわけだけど、最近の気温の高まりに乗じてなのか、ふっと肩から力が抜けた。エスカレーターを逆走するみたいに歩き続けていたけれど、ふっと足の裏と地面がむちっと接着して、お腹のあたりが温かくなる感覚になる。たぶん、これを幸福と呼ぶのだ。原因は不明だが、ずっとカッチカチに固まっていた身体が、ふと軽くなった。

20代前半を、あまりに適当に、それこそ自由な、ある意味でむちゃくちゃに過ごしてきたので、その反動ではあったのかもしれない。「ちゃんとしなきゃ」「しっかり規則正しい大人になるぞ」と思い続けたものの、身体の方が音を上げてきた。

金曜からビーチサンダルで外出している。一番気持ちがいい。そんな人間が、明日から5日間連続でネクタイしてスーツ着て革靴履いて満員電車乗って会社行ってボサボサ働くわけだ。

結論から言おう。無理だ。できる範囲で自己管理して、ちゃんと労働をこなしてきた自負はある。けれど、結構これは無理かもしれない。薄々気が付いていて、知らないフリをしていたけれど、どこかのタイミングで思いっ切り飛び出さざるを得ない気がする。

今までは、ノリと直感だけで動き、それでかなり痛い目も見てきた。そこからの反省で、計画を立て、損得を考え、一番エエトコでいい感じに持っていくか、という動きをしていたけれど、もう無理だ。1秒でも早くおもしろくて楽しいことがしたい。それは別に目の前から逃げるということではなく、より本当の意味で困難なことを、魂の基礎の上にやり抜くということだ。あえて乱暴に言い切るが、やりたくないことを嫌々やっておく方がほとんどの場合において楽なのである。人間は結局縛られたがっている、何かの枠に入りたがる習性を持つ生き物なのであり、無制限な自由に耐えられるようにはできていない。だからこそ世間体とか、たとえば無職は恥ずかしいとか、いつまでには結婚しておくべきだとか、年収はこのくらいないと厳しいとか、色んな枠組みの中で生きようとする。しかし、残念なことにどんなにピカピカの経歴で周りの賞賛を集めようとも、死ぬときはひとりなのである。これはとても残念なことで、今生からの意識が遠のきかけるとき、Twitterでイキッてるような連中はだれも「いいね!」を押してくれず、たくさんの札束は意味を持たない。いや、もちろん札束はたくさんあるに越したことはないのだけれど、つまりなんだか謎にこの世に生まれてきたからには、己の生命のリソース全てを使い切りたいという、それだけの話だ。その使い切り方が、もしかするとただ毎日ゲームしてカップ麺食ってるだけなのかもしれないし、起業して大金持ちになって財団を作り慈善活動に勤しむことなのかもしれない。積立NISAをしてもどうせ死ぬし、周りと年収や地位のステータスゲームに明け暮れてもどうせ死ぬ。そう、これは結構重要なことなよだが、人間どうせ死ぬのだ。

ここで、だから好きなことをしよう、という結論にはならない。好きなことと、成し遂げるべきことはまた別物だ。何を為すべきかを見極める為にこそ人生の時間は存在しているのであり、そしてそれは往々にして困難を伴うものだろう。ぶっちゃけウルトラホワイト大企業に入ってパンパンの福利厚生と共に30代で1000万くらいサラリー貰って適当にぬくぬく暮らしたい。けれど、もうそれはできないし、仮にできたとしても「なんかちゃうねんな」的なガムを噛みつつ釈然としない毎日を過ごす気がする。

なんだか、ええ塩梅ができない。そして、ええ感じにうまいことやってラクになることが、何か間違っているのではないかという観念が、自分の人生の根底に強く流れている。

今は正直、楽勝に生きている。職場はあり得ないほどの緩さであり、その割には給与はしっかりしていて、裁量もあって好きにできる。休みも余裕で取れる。色んなとこにも行けるし管理もされない。ぶっちゃけここにしがみついて最低5年くらいはやっていった方が絶対いい。俺でもそれくらいはわかる。

しかし、俺の中の悪魔的な囁きがずっとこだまするのだ。「ええん?これで?ほんまにええの?」

やっぱり、もっと苦しくて難しいことをしなきゃいけない気がする。何も根拠はない。けれど、別に自分を縛るものは、本当の意味で何もないのだ。好きにやろう、じゃない。ガチで考えて、苦しみながらやろう、だ。そうなる為に身体が軽くなってきた。これは、結構ヤバいことなのかもしれない。難しい。難しい、難しいな。

大阪城音楽堂

何かを言葉にするということを、意図的に避けてきた。ちょこまか発散させることで満足してしまいそうになるから。けれど、今日は吐き出さないと、どうにかなりそうだ。

大阪城音楽堂に行った。奇跡みたいな一日だった。ここ最近は、ありえない忙しさに毎日目がぐるぐると回っているし、毎日部長には殺意を覚えている。

大阪の取引先のところに行って、その間にバカみたいに見積依頼がポンポン来て、商談が長引いたからスーツびしょびしょになりながら走って家着いたら、絶賛トラブル中の社長から電話がきた。一旦無視。一瞬でシャワーを浴びて、裸の上に服を乗せながら折り返す。何も想定せずに話したから、切った後に後悔する。ああ、あとあのメールも返さないといけない。どうしよ。けれども時間がない。時刻は18時を回ろうとしていて、つまりは開演まで30分もない。恐らく会社から電話が来るだろうけど、何もかも無視だ。全てを置いて、カバンさえ持たずに家を出た。

けれども重い荷物を背負ったみたいな気分で地下鉄に乗る。大量のことをやり残している。しかし全部置いてきた。どう考えても一人の人間が処理できる量ではない。頭のてっぺんから3本くらい手がニョキニョキ生えてきたら、多分やれるのかもしれない。

森ノ宮駅に着いて、走る。18:20過ぎ。ウケる。てか音楽堂がどこにあるのかわからん、ヤバ、と思っていたら人の流れがすーっと動いている。ここだ。ついていくと、そこは大阪城音楽堂への入り口だった。

***

脳みそがステージと、空気を伝って繋がってるみたいで、ビートで直接ツボを押されているような、そんな感覚になる。目を瞑る。メガネを外す。靴を脱いで裸足になる。ビートが地面を伝って、足の裏から響く。風が吹く。どこか甘い、そんな匂いだ。春。ふと空を見上げてみる。雲がない。kanekoayanoの野音には、雲がない。

ポケットに入っていたモノを途中全部椅子に捨てた。眼鏡は取ったし、靴も脱いだ。素足が固い床に触れる。ただ、何にも縛られたくない。

『グレープフルーツ』が最高だった。こんなに自分の気持ち、つまりは心の中の匂いというか、ふとギュッとなるあの感じを、この鮮度で、言葉と音にできる人が目の前にいるのだ、ということ自体に慄いてしまった。会場の空気の振動が、表情を変えていくカネコアヤノが、喉が震えて固体になっていく言葉が、そこに添えられるメロディー全てが、心の外側を包んでいく。kanekoayanoの内側は襞になっていて、掴まれてしまって離れることができない。身体が透明になって、ぽっかりと穴が空いて周りの空気と同じになっていく。振動と同一になっていく。だんだんと。音が身体に馴染む。会場の全員に馴染む。無機質なコンクリートのステージに、染み込む。空が暗くなって、それぞれが、それぞれの間に溶けていく。

気持ちがいい。脳みそを、37℃のお湯に浸してゆっくりと両手10本の指で解きほぐしていく感覚。自分が何者であるかを、だんだんと忘れていく。時たま思い出していた仕事のことが、全部にごり酒の白っぽい部分みたいに、底に沈んでいった。

後半は記憶があいまいだ。半分夢の中にいるみたいだった。新曲の『石と蝶』が、あまりにも良い。カネコアヤノの神髄だ。後ろ向きなようで力強い歌詞。カネコアヤノの生き方が、彼女の、石のようにゴロっとしていて一切譲ることのない精神が、波打つようなビートに乗って漂う。それはほとんど香りに近いものだ。カネコアヤノそのものが空気になって、音として染み出していく。

 

"わたしが揺れると 鈴の音が鳴る"

 

そう、大抵のことはむずかしい。むずかしいし、変わりたくても変われない。誰かの言うことは聞きたくないし、命令してくるならちゃんと理由が欲しい。自分に嘘ついて愛想を振り撒いたりしたくない。"普通に"生きていると実はこんな単純なことが、できなくなってくる。彼女の音楽は、誰の胸の中にも存在する欠片みたいなものを掬い上げていく。迷うことなく。だからこそ、こんなにも多くの人が、心臓と脚を動かして、生きて、やってくるのかもしれない。生きていることそのものが、響いていく。全てが終わった後でも、残響がずっと胴体の一番膨らんだ部分で、反響している。残ってしまう。どうあがいたって。

お土産みたいに、微振動を携えて大阪城の外堀をずっと眺め続けていた。すぐには日常に戻れそうにない。街の光と、音にまだ馴染めない。遠くでゴウゴウと、またどこかで何かが鳴っている。なんとなく頭の上を流れていく。身体の中に落とし込む。この日を。網膜に焼き付いた彼女のありのままを。いまこの瞬間、ただ時が過ぎていくその瞬間に、見知らぬひとびとが同じ場所で、ただ揺れていたという素晴らしい事実を。生きていく。時が過ぎる。1秒が刻まれていく。その動きの中で、カネコアヤノが歌い、kanekoayanoとして音を鳴らしていて、確かに僕の身体を突き抜けた。この奇跡を、この先も忘れることはないだろう。

(2025.4.18)