言葉を写し取る感覚

何かを書いたり、喋ったりするとき、自分の前に膜があって、その上にマッピングしている感覚がある。

これを言い表すのは非常に難しい。何か言いたいことがあったとき、外堀から埋めるようにしてブロックとして言葉を配置する、みたいな感覚。その、膜がピンと張ってしまえば言語化は成功だと言える。何かが「言えた」という感覚は不思議だ。言ったら言えたことになるはずだが、言っても言えていないことは多々ある。けれど、言えたときは、透明な膜、板の上に、オブジェクトとしての、粘土としての言語を置いて、その置き石の波形によって漠然とした「言いたいこと」の輪郭が見えてくる感じ。魚群ソナーが、電波を発して、その波の乱れによって魚の居場所を探り当てるのと似たような感じか。

話は変わるが、なんでこんなに毎日何かが書きたくなるのだろうかと言えば、俺が存在した証を残したいからだ。毎日変化していく自分というものを、確かに形にしておきたい。なんだか説明のできない欲求が、そこにはある。

就活をする中で、やりたいこととか将来についてよく考える。でも、やはり、無理やり自分をまとめようとしたって、どうしようもないズレがある。過剰さがある。または、染みとも言えるだろう。存在から滲み出る、染み。そう考えると、俺はやっぱり、どう足掻いても、組織の中で出世を目指して、何年も何十年も同じところに居続けることが、どうしてもできない。

波に乗りたい。常に変化し続けたい。カオスに乗り続けることが生きることであり、不安を全て丸め込むことこそが生の存在そのものである、という風に考えている。丸め続けること。ただそのままの形を保持していくという、一見不安定に見える所作こそが、かりそめの安定状態を作り出す。生きることの指針とか、そういうゲームにやはり、毒されすぎないことが肝要だ。あくまでも、存在の染みから出発する。まあ、カネはどうにでもなる。日本はそこらへん色々どうにかなってるし。怠けることでも、逃げることでも、激務に身を任せることでも、他者との闘争に身を置くことでもない。存在そのものの脂っこさに向き合うという、一番ハードな行い。それをまずは行う必要がある。実は、やりたくもないことを嫌々やる方が、己の欲望に正面から向き合うことよりよっぽど楽であるような局面は多い。

なんだか自己啓発チックなことばかり言ってしまったが、たまにはいいか。別にやりたいこととか無理に探す必要もない。ただ、身体の質量と、そこから生じる重力に身を任せる。ある程度、そこに引っ張られてみる。

みんなを一気に宇宙に放り出したら、その浮き方は結構バラバラなのだ。