一年くらい本を読む時間が欲しいと思ったけど

じっさい一年くらい本を読む時間はあったわけだ。だが、もちろん、本を読んで英気を養っていたいわけではなく、ただそういう時間が欲しいだけで、実際与えられると、「まあ、なんだかなあ」という気持ちに、なってしまう。欲すれど、与えられた途端欲しくなくなってしまい、持て余してしまうのは世の常、人の習性そのものである。のだが、結局一年くらい海を眺める時間が欲しいとは思ってしまう。けれども、実際海なんてせいぜい十五分くらい眺めていると飽きてくるものだ。ケツが冷えてくる。ドライブに行きたくなってクルマを運転すると、一時間もしないうちに全てがタスクと化してしまう。右折はめんどくさい。そんなものだ。

なんだけれど、そういうことをなんとなくでやり続けたあとにくるふわっとした悦びとか、ゆらゆら脳裏を掠める甘さとか、まあ、それがたのしいってことのかもしれない。

実際、本当に一年間本だけを、読もうと思ったら読めたわけで、でも結局わりかし働いてしまった。白米にはおかずが必要だ。メリとハリ。同じことをし続けているように見える人間のなかには、実は結構な凸凹があったりする。そんな気がするから、まあ、積み上げられた書き物の中に溺れる、なんて妄想をしてしまうものの、しかし未だに自分の時間をどうやって使えば良いのか、皆目見当も付かない。しかし、振り返れば意外とのんびりしていた気もする。いまもう一度、何もない時間を一年与えられたら、やはり過剰に働いてしまうかもしれない。やはり、重労働はジャンキーである。頭と身体を酷使して、ふわっと何も考えないという状態に、多くの人間はなりたがっているし、明らかにハードな状況から離れるそぶりさえ見せず、留まり続ける人々の根底には、少ないながらも、そうしたジャンクさが潜むのだと思う。マックのポテトばかり食う段階からはサッサと卒業しなければならないわけで、自分のケツからコロッと捻り出した里芋を適度に蒸してむしゃくちゃ美味いって、食わねばならない。そして、労働者レベル98みたいな、キャリアアップが、市場価値が、ハードワークが、みたいなことを宣う人々の嘘臭さって、そういうところにあるんだな。自分の芋を食わないという、嘘臭さ。他人の為の、他人に与えられた仕事に悦びは存在しないわけであり、そして他人との終わりなき競争や、資本の無限の増殖や、借り物の言葉で塗り固められた自己啓発だとか、そういう、幼稚なじゃれあいからは抜け出さない。そして、今までの自分の時間の過ごし方を振り返って、反省した。だが、反省したとてまあやっぱりマクドナルドは美味しい。そこをどう乗り越えるか、なのだが、最近はもういいやと思ってきた。いや、諦めではない。むしゃむしゃ食ってるうちに、目付きだけはガチでその先を見据える、みたいな。身体の力は抜きつつ、ガンギマるかんじ。たぶん、それが正解。そして、正しい方に行こうとしてはいけない。ただ、頭と磁力だけはそちらに向けておいて、体から力を抜く。そうして、ふ、と流れていく瞬間に全てをかける。

ひとまず、やれることは通勤時間中に俯いたりせず、欲しくもない情報をむしゃくしゃ食いまくることではなくて。そう、ただ車窓を眺めること。100年前の明治の人々は、たぶん、みんな車窓を眺めていた。動いていく景色を見て、動いていく。