ほどく
ほどくために、歩く。夜、23時を少し過ぎた頃、家のまわりを、あるく。ただ、あるく。ほどく。色んなものをほどくために。絡まったり、まとわりついたり、乗っかったりしたものたちを、おろす。そのために、歩く。働いているとなぜ本が読めなくなるのか、というタイトルの新書が売れているらしいけど、悔しいが、働いていると本が読めなくなる。いや、ページを開くと読めるのだが、正確には「本を読む空気に自ら浸りにいけなくなる」あたりか。頭のモードが全然違う。
ビジネス、という言葉が持て囃される。成長、とか言われる。ずっと違和感がある。なんで、こんなに企業の売り文句に「成長」が使われているのだろうか?よく考えるとおかしな話だ。たとえばAからBに、子供から大人に成長する、とか言ったりする。始点と終点が決められている。その、時間軸と共に使われる成長という語が、単体で、ポンと使われているのが摩訶不思議でたまらなかった。「成長を実感できます!」いや、何の?何からどう変化していくの?これを見て変に思わないひとって他にいないの?しかも、一社や二社ではない。ほとんどの求人広告に「成長!」の文字が踊る。なんとも、珍妙な踊りだ。
そして、思うに、企業に入ったところで得られる成長実感などまやかしに過ぎない。ただ、組織内で利益を生み出す行動様式が最適化されたに過ぎず、自分の身体と合わないタスクができるようになることを「成長」という誤魔化しで覆い隠しているに過ぎない。たしかに、できなかった自分ができるようになることは嬉しいが、できた先にあるのは、資本家をより効率的に稼がせる為だけの身体だ。その成長は、おまえの魂にどれだけの質量を持っているのかと、問うてみたい。キャリアアップというレールに、本当に心の底から乗り、より多くの労働形態をこなせるようになることに無上の喜びを覚えるのであれば話は別である。しかし、そんなことなどなく、ただそう持て囃されており、そして疑ったこともなくその流れに、職歴を積み職能を増やし年収を増やす競争に延々と参加し続けることに組みしようとするのであれば、終わりのときにどれだけ満足していられるのだろうか、と案じてしまう。俺は、一部の人間を稼がせる為にこの魂と肉体、そして時間を一切使いたくない。ハードなほど成長できる、というまやかしに騙されてはいけない。力を持て余した若者に、効率よく、疑いなくエネルギーを発散させ、利潤を生み出す図式にスムーズに組み込ませるために、そういった、死んだ言語利用がなされている。精神と肉体を酷使し、ボゥっとした視界の中で朧げにほくそ笑むのは、ただ、使用者たちだけである。
と、いうわけで、人生を他人の為に切り売りしているものだから、疲労が溜まって仕方がない。あたりまえだ。自分のために生きずに疲れるのは、至極当然のことだ。
ただ、あるく。それだけで、だんだんと自分が戻ってくる。ぬるま湯でフリーズドライの味噌汁を解凍していくみたいに、どんどん戻っていく。染み出て、液体になる。前に進んで、息を吸って、横柄に散歩する柴犬を見ているうちに、身体のリズムが整ってくる。そして、何よりも、一通りの、できあいの言葉を、トンカチで釘打つみたいに使うのではなくて、きちんと心の中で粘土をこねるみたいにして、吐き出す。これが、多分俺が生きる道なんだなと、ふと思う。金を稼ぐのは苦手だ。きっちりするのも大変だ。報連相とかいって、必要もなさそうなコミュニケーションを取り、立場を意識して振る舞うのも、できてしまうが、まあ疲れる。全人類疲れるのだが、やはり、俺は本気でここから抜け出す道を考えている。高度に制度化され、綺麗に、考えずに、"ひとまず"生きられるこの世の中で、あえて傷まみれになって泥を啜りお腹が"グ"と鳴らすためにはどうすればいいのか、毎日考えている。