長い回り道

A detour

回り道、という日本語がある。周る、と表記する方が的確なように思うのだけれど、回る、の方がしっくりくる。迂回、も回っているのだし、このどこにも辿り着かない感覚がグルグル感と結びついているのだろうか。

一直線で目的地に辿り着ける条件が揃っているくせに、あえて違うことをしてしまう、というどうにもならない癖がある。そういう脇道で、土をほじくっているうちに時間が経って、おうちへ帰る時間がやってくる。心の中ではずっと、今やらねば、と思い続けているのだれけど、しかし中々そうはいかず、外堀を掘り続けてしまう。まだ間に合う、ということだけを希望に感じて、周辺機器を揃えることに精を出す。本当はメインのコンピュータを吟味せねばならないのに、マウスに拘ってしまうということの享楽性に、溺れきっている。それはSNSの性質と不可分でもある。断片がとめどなく流れ続け、分裂し続けることが推奨される。集中より分散。多分、そのモードに身体が中々侵されているという側面もある。し、元々そういった傾向が強かったような気もする。本当のところはよくわからないけれど。

けれど、シンプルな話で、最近そうも言っていられなくなった。回り道とは即ち無限へと続く未来を作り続ける営みなのだが、実際そんなものはハリボテなのであり、もうそろそろスクリーンに映し出された夢から醒めるべきであるし、そうしたモードでもなくなってしまった。

ある関心は、どこまでデカいことができるか。その一点のみだ。常日頃からデカいことを考え続けることはむちゃくちゃしんどいのだが、しかしもうそうするしかないのである。俺にはしんどさとかそこそこの負荷、辛さが必要である。そうしないと自分の錘が外れて、より高次なキツさが待ち受けているのだ。まあ、四十年したらそこそこジジイになり、落ち着くだろうと思う。ああ、はやく変な欲望とか全部捨てて、平日昼間の水春の内風呂でプカプカ浮かぶジジイになりたい。私はジジイになりたい。だが、気持ちよくスーパー銭湯の風呂に浮かぶためには、今やれるだけのことを燃やし尽くす必要があるのだ。気持ちの良いジェットバスに浸かるために。公園で昔のことをひたすら思い出し続けるジジイを見つめる、鳩たちの群れ。

寝る。三食食う。野菜と果物を食う。ヤニは吸わない。酒は多くて二杯で留める。昼から呑んだりしない。アルコールへの逃げは破滅の始まりだ。あと人を恨まない。どうせ他人だ。そんな感じで健康なジジイになる。いまのデカすぎる欲望を消し去るという、生の在り方だ。

ああ、浮かびてえ。水春の風呂に。