本当に大事なことは誰にも言えない

本当に、全身の細胞のことを否が応でも意識せざるを得ないような、そんな、生の悦びを根底から感じられるような出来事に出会ったとき、誰にも言えなくなってしまう。

減るモンではない。それはそうだ。話したところで何も減らないし、むしろ感動を共有できて、なんだかイイ感じがする。けれど、言葉にするということは何かを必ず削ぎ落とすことだ。自分の言葉であっても、それは他者なのであり、言語による媒介は必ず自己俯瞰を通したフィルターがかかる。つまり、他人に何かを伝えるとき、その誰かの視線を導入せずに言葉を形作ることはできない。だから、実は言葉にすると、減る。きっちり精神のモヤモヤ分が削ぎ落とされる。これを逆手に取ると、自分の悩みだとかを日記に書き心を楽にするという方法に繋がるわけだ。言葉にした時点で他者に知覚され、それは魔法の終わり、青春の極み、夢からの目覚めを意味する。内面に籠る限り全ては夢であり続ける。悩みを他人に話すことが精神安定に繋がるのは、無限に続く煌きが有限なものとなるからだ。言語によって他者と繋がることで、我々は素面でいられる。

本当に全身で悦びを覚えたり、生きることの快楽を純度100%で受け取ったときは、誰にも話したくない。そのモヤは全部独り占めだ。僕の中の血管を通って、頭のあたりをグルグル循環していくのだ。そうしてなんとも言えないものが滲み出た結果が、ソイツが纏う雰囲気だったりするのだと思う。

せっせと、溜め込む。働いていると特に、クリアに話し、分析をすることが正義になる。労働、利潤を目的とする行動には、"一旦" 何事も明確にしておき、迷いを断ち切ることが必要となる。しかし、それはあくまでも仮の姿であり、生きることはもっともっと、靄を溜め込め続ける、そういうことなのだと思う。

(2024.10.2)