イラクのバグダッドに、演劇を観に行った②

前回→イラクのバグダッドに、演劇を観に行った① - お前は何がしたいんだ

俺は深夜の杭州の空港で呆然としていた。時刻は0時過ぎ。0:05発の飛行機はとっくに出発している。俺が乗るはずだった、カタール航空、ドバイ行き。俺だけを乗せずに、飛び立っていった。

拙い中国語をなんとか喉の奥から捻り出し、カウンターになんとかできないかと頼んでみる。しかし、返ってくるのは呆れた顔と、どうにもできない、という驚くほど明確な答えだった。お前は何を言っているんだ、みたいな空気と視線。ひとまず、ベンチに座ってみることにする。仕方がない。宿を探す。

プルルル……。ネットで探したホテルに片っ端から電話を掛けてはみる。

「今から一人、予約できるか?」

「身分証はあるか?」

「ない。」

「…。身分証が無いなら無理だ。」

こうしたやり取りを延々と続けた。中国では!中国国民のみが持つことのできる「身份证」というものが、どこへ行こうにも、例えば高速鉄道に乗ったり宿に泊まったり、果ては行楽地でチケットを買うときにさえ、必要になる。中国は身分証社会である。どこへ行っても己の身分を証明することが求められる。そして、身分証を持たない外国人は一切泊まれない宿というものが、数多く存在するのだった。

深夜の空港でひたすら電話をかける。ダメ。身分証がいる。ダメ。外国人は泊まれない。ダメ。一体何軒掛けたのかわからない。時間もどんどん過ぎていく。

なんとか、泊まれる場所が見つかった。時刻は夜中の1時を回っていた。重くなった脚を上げ、誰もいない空港の外側へ繰り出す。冷たい外気が眼の奥まで吹き込んでくるみたいだった。弱々しく手をあげて、タクシーを捕まえる。クルマばかりが走る殺風景な杭州を、走り抜けていく。ロボットアニメの都市みたいな風景が、ただただ、ずっと広がり続ける。5分ほど走った頃だろうか。運転手のスマホに着信が入った。車線ばかりが広がる道路を走りながら、彼はやや深刻そうな面持ちで話を続ける。なんだか、嫌な予感がした。そしてこうした予感は往々にして的中するものであり、そして悪いことは、大抵立て続けに起きる。

「すまないが、降りてくれないか?」運転手が静かに告げる。

「え?なんで?」

「間違えて別の人の乗車を受けてしまった。すぐ戻るから一旦降りてほしい。絶対に迎えにくるから。」

中国ではuberのような配車システム(『滴滴』というサービスだ)が発達しており、俺を乗せたにも関わらず運転手は別の乗車を承認してしまったらしかった。承認した以上乗せない訳にはいかないので、一旦俺を降ろしてそれからまた迎えにくる、という旨のことを俺は告げられた。知ったこっちゃない。断固拒否したい。早く寝たい。なんで飛行機に乗り遅れて挙句の果てに深夜の幹線道路で降ろされないといけないのだ。しかし、俺にはごねる元気さえ残ってはいなかった。

「わかった。」俺はそういって、粛々と降りた。歩道などではなく、他に行き場のない分離帯のような場所で。

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車が高速で駆け抜けていくのを、呆然と眺めていた。もう別のタクシーを捕まえようと思ってみるけれど、走っていない。どうする?ここからは何キロも離れた場所にホテルはあり、歩くのは現実的ではない。「10分で戻ってくる!」と威勢よく言い放った運転手は、15分経っても戻ってこなかった。この街には何も落ち度がないのだけれど、もう杭州には来るもんかと思った。行き場の無い、怨嗟。ひたすら立つ。何も知らない場所で。時刻は2:19だ。こんな真夜中に。独りで。

運転手が走り去ってから、20分近くが経過した。そして、タクシーが僕の前に停まった。運転手はヌルッと扉を開ける。

中には、見知らぬ女が座っていた。

🚕🚕🚕

ホテルに着いて、チェックインを済ませ横になる。長かった。あまりにも長い旅だ。朝に飛び出して、ほとんど明け方が近づく今になっても、僕はまだ中国国内にいた。どうして?本当は、数時間後にはドーハで乗り換えていたはずなのに。

しかし、嘆いていても仕方がない。新しい便を予約するしかない。

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ひとまず導き出した結論だ。杭州から中国西部の成都へ飛び、そこからエジプトのカイロで乗り換えてバグダッドへ至る経路だ。値段も手頃だったし、スケジュール的にも早く出発する必要があった。何よりも、インド経由で向かっている吉村に遅れてしまっている。本当はバグダッドの空港で待ち合わせをするつもりだったのだけれど、先に一人で市内のホテルで待機してもらうことはほとんど確定していた。ソロ海外旅行が初めての吉村に、いきなりひとりでバグダッドに行ってもらう…。自分が起こしてしまった不義理に胸が締め付けられるような感覚になる。そんな気分と、やり場のない溜め息の源を抱え込みながら、僕はベットに沈み込んでいった。

翌朝、タクシーを拾って空港へ向かう。

 

 

 

 

 

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遅延しててワロタ。また遅延やんけ。90分も遅れとる。乾いた笑いしか出てこなかった。

俺は修行僧だ。心の平静を保つ為に自己暗示をかける。俺は待つ。待つ為にここに来た。ロビーでじっと座る為に、俺はチケットを買ったのだ。そうだ。飛行機はスグ乗るように待って乗った方が味わい深くなるのだ。遅延せずに乗ってしまう人々が可哀想だ。遅延を味わえ。そして喜べ。

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やっとのこと乗ることができた飛行機の安心感は凄まじかった。やっと中国から飛び立てる。もう出発から24時間以上経つけど、まだ俺は中国国内にいる…。

飛行機は無事成都へ到着した。エジプトまでの乗り換え便まで3時間ほどあったので、ザッと市内を見る為に空港でスーツケースを預け、地下鉄に乗った。ここまで来たら骨の髄までこの旅を味わい尽くす必要がある。

中国の地下鉄の椅子は硬い。プラスチックの椅子だ。ふかふかの布では、ない。

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天府広場、なる場所にやってきた。名前がカッコいいのが理由だ。中心地との情報があったものの、単なる広場に銅像が鎮座しているだけだった。拍子抜けしてすぐ帰ることにした。

地下鉄に乗ればギリギリ間に合うが、また乗り遅れるのが怖い。ここは思い切ってタクシーを捕まえることにした。タクシーに飛び乗り、空港へ向かう。約180元(3600円ほど)の出費。大した観光もしていない割には手痛い出費だが、飛行機に乗り遅れるよりはよっぽどマシだ。

 

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また遅延しててホンマにワロタ。なんの為に俺はタクシー乗ったんや???

待つ。俺は空港修行僧やねん。ナメんなよ。もっと遅延の飛行機を待ちたい。自分、昨日から遅延の飛行機にしか乗っていません!もっと遅延待ちやらせてください!!

キッチリ50分近く遅延して飛行機はやってきた。待ちくたびれた乗客たちが深夜のロビーに群れている。ずっと、深夜のロビーで飛行機を待っている。そのやり切れなさと、越境できるワクワクが複雑に混ざり合う。遅延、搭乗不可、遅延、遅延…。本当に今後どうなっていくのだろうか?

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血迷って普段は絶対観ないような映画を観ることにした。ヘッドフォンを付けて、映画をスタートさせて、爆睡した。飛行機の揺れだけが俺の感情を癒してくれる。俺は窓際には座らず、通路側にいる。いつでも、飛び出すことができるから。何回も何回も、ひたすら飽きるほど飛行機に乗って、やっと中国から飛び立つことごできた。機体は加速を続け、内臓をくすぐるような感覚が一瞬訪れる。離陸。徐々に高度は上昇し、窓の外から小さくなっていく都市が見えた。

一旦さらばだ、アジア。

✈️✈️✈️

目が覚めて、25ドルでアライバルビザを買う。ネットでは時間がかかるだの色々と書かれていたが、カネを払って、パスポートにビザの紙切れをガッチャンと止められ、それで終了だった。

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俺は、エジプトのカイロ国際空港にいた。

(つづく)