書くことでしか救われない。頭の中を色んな情景とか言葉がよぎって、今この瞬間とは全く違うものを想像したりする。それが積み重なると身体のひずみというか、廃液のようなものとなり、動きが滑らかではなくなってしまう。
できることであれば、これは嫌味では全くないのだが、至極普通に暮らしたい。情熱とかエネルギーを持て余したくないし、続いていく毎日でシンプルに満足したい。Aのことを考えているときはひたすらAを考えていたい。直線として生きたい。
けれど、どう足掻いても面として広がってしまう。拡散してしまう。絵の具を真水の中にそっと垂らしたその瞬間のように、カオスのうねりと共に広がり続けてしまう。敢えて強い言葉で書くと、それはゴミに等しい。抜け殻になっただけの、残骸だ。浮かんでは消えていった言葉たちの。
それを処理する為に、書く必要がある。書いてリセットする。言語が算出される過程を一度クリアにしておく必要がある。そうしないと、バランスが保てない。肉体と日常の連続性と、言葉と夢の非線形のリズムが釣り合わなくなる。存在しているのは今目の前にある世界なのだから、言葉の比重が大きくなるとうまく日々を過ごすことができなくなってしまう。毎日の手触りが薄れて、ずっと上滑りしているかのような錯覚に陥ってしまう。そうするとエネルギーが内側に篭ることになる。なんだか目に見えないけれどその厚さだけはなんとなく感知可能な、薄い薄い確実な膜が脳を覆い尽くすようになってくる。
結局は、リズムだ。波を打つから生きていけるし、行動可能になる。書くことはビートそのものであり、生きることの根底にあり、そして救いそのものになる。ただ誰でもない、自分の為に書く。それが読まれる。拡散される。
言葉が、僕の内側だけで籠るのではなく、外側に向けて発信されていく。それこそが、救いというプロセスの本質だ。自分だけであるかのように感じていたものが、他人にも同じように感じられる可能性、を持つ。そのこと自体が大切であり、その後のことは適当に任せておけばよい。僕にとっては、何事もまずはそこから、なのである。
ひとまず書く。いい感じにとか、人から見て面白いとかは全て傍に措く。やる気が出るとか内面的な部分も無視する。排泄と同じように、書く。心臓が鼓動を打つようにして、書く。そうした先に、書くこと自体が生きることになっていく。
今の所の僕には、端的にそれしか無いように思えてしまうのだ。