軽い

軽い。楔から解き放たれた感覚だ。難しい。ずっとふわふわしていた。たとえば、ずっと好きにやっていた人間が、一度つまずくとそこからやり直すのは結構難しい。今までの自由さのアンチテーゼとしての縛りを課してしまった場合、そこから勝手に抜け出すのはほとんど不可能に近いように思う。自分で自分を縛るだけの状態。

上記の状態が2年近く(長いな…)続いていたわけだけど、最近の気温の高まりに乗じてなのか、ふっと肩から力が抜けた。エスカレーターを逆走するみたいに歩き続けていたけれど、ふっと足の裏と地面がむちっと接着して、お腹のあたりが温かくなる感覚になる。たぶん、これを幸福と呼ぶのだ。原因は不明だが、ずっとカッチカチに固まっていた身体が、ふと軽くなった。

20代前半を、あまりに適当に、それこそ自由な、ある意味でむちゃくちゃに過ごしてきたので、その反動ではあったのかもしれない。「ちゃんとしなきゃ」「しっかり規則正しい大人になるぞ」と思い続けたものの、身体の方が音を上げてきた。

金曜からビーチサンダルで外出している。一番気持ちがいい。そんな人間が、明日から5日間連続でネクタイしてスーツ着て革靴履いて満員電車乗って会社行ってボサボサ働くわけだ。

結論から言おう。無理だ。できる範囲で自己管理して、ちゃんと労働をこなしてきた自負はある。けれど、結構これは無理かもしれない。薄々気が付いていて、知らないフリをしていたけれど、どこかのタイミングで思いっ切り飛び出さざるを得ない気がする。

今までは、ノリと直感だけで動き、それでかなり痛い目も見てきた。そこからの反省で、計画を立て、損得を考え、一番エエトコでいい感じに持っていくか、という動きをしていたけれど、もう無理だ。1秒でも早くおもしろくて楽しいことがしたい。それは別に目の前から逃げるということではなく、より本当の意味で困難なことを、魂の基礎の上にやり抜くということだ。あえて乱暴に言い切るが、やりたくないことを嫌々やっておく方がほとんどの場合において楽なのである。人間は結局縛られたがっている、何かの枠に入りたがる習性を持つ生き物なのであり、無制限な自由に耐えられるようにはできていない。だからこそ世間体とか、たとえば無職は恥ずかしいとか、いつまでには結婚しておくべきだとか、年収はこのくらいないと厳しいとか、色んな枠組みの中で生きようとする。しかし、残念なことにどんなにピカピカの経歴で周りの賞賛を集めようとも、死ぬときはひとりなのである。これはとても残念なことで、今生からの意識が遠のきかけるとき、Twitterでイキッてるような連中はだれも「いいね!」を押してくれず、たくさんの札束は意味を持たない。いや、もちろん札束はたくさんあるに越したことはないのだけれど、つまりなんだか謎にこの世に生まれてきたからには、己の生命のリソース全てを使い切りたいという、それだけの話だ。その使い切り方が、もしかするとただ毎日ゲームしてカップ麺食ってるだけなのかもしれないし、起業して大金持ちになって財団を作り慈善活動に勤しむことなのかもしれない。積立NISAをしてもどうせ死ぬし、周りと年収や地位のステータスゲームに明け暮れてもどうせ死ぬ。そう、これは結構重要なことなよだが、人間どうせ死ぬのだ。

ここで、だから好きなことをしよう、という結論にはならない。好きなことと、成し遂げるべきことはまた別物だ。何を為すべきかを見極める為にこそ人生の時間は存在しているのであり、そしてそれは往々にして困難を伴うものだろう。ぶっちゃけウルトラホワイト大企業に入ってパンパンの福利厚生と共に30代で1000万くらいサラリー貰って適当にぬくぬく暮らしたい。けれど、もうそれはできないし、仮にできたとしても「なんかちゃうねんな」的なガムを噛みつつ釈然としない毎日を過ごす気がする。

なんだか、ええ塩梅ができない。そして、ええ感じにうまいことやってラクになることが、何か間違っているのではないかという観念が、自分の人生の根底に強く流れている。

今は正直、楽勝に生きている。職場はあり得ないほどの緩さであり、その割には給与はしっかりしていて、裁量もあって好きにできる。休みも余裕で取れる。色んなとこにも行けるし管理もされない。ぶっちゃけここにしがみついて最低5年くらいはやっていった方が絶対いい。俺でもそれくらいはわかる。

しかし、俺の中の悪魔的な囁きがずっとこだまするのだ。「ええん?これで?ほんまにええの?」

やっぱり、もっと苦しくて難しいことをしなきゃいけない気がする。何も根拠はない。けれど、別に自分を縛るものは、本当の意味で何もないのだ。好きにやろう、じゃない。ガチで考えて、苦しみながらやろう、だ。そうなる為に身体が軽くなってきた。これは、結構ヤバいことなのかもしれない。難しい。難しい、難しいな。