タイミーやってた頃

新卒で入った会社がヤバいところだった。マイナビには完全週休二日制と書いていたのに蓋を開けてみると土曜は全て出勤だった。年休は余裕で100を切っていた。入社してから初めて変形労働時間制であることを告げられて、別部署の同期は祝日に休めないと言われていた。入社後に、いきなり。

その時の彼の、表情筋が二ミリ動いたか動いていないかの運動によって作り出された、絶妙な顔が忘れられない。

いきなり田舎のプレハブ現場に飛ばされた。人事からは「長くて二週間」と聞いていたけど、朝五時、電気も通っていない五月のプレハブの中で、「お前三ヶ月ここな。マックス半年。」と告げられた。発電機がまだ到着していない、近畿南部のとある山の上のプレハブの中で、電気の通っていない薄暗い朝五時の冷たい空気が流れる中でスケジュール表が渡されて、そこには土曜の工程がみっちり記されていた。「あの、これ、もしかして土曜も全部出勤って感じすかね…?」「おん。」法律って、何の為にあるんだろう。そうは思っても、山の上だからスマホは圏外だった。

一ヶ月に三度も事故が起きた。先輩のほっぺの肉は飛んでいって、てんかんの後遺症が残った。他にも洒落にならない事故が起きていた。ただの怪我じゃ済まないことになってしまった人もいた。基本給は十七万円だった。百時間近く残業している先輩がいて、会議という会議が、テトリスみたいに自由時間の隙間に食い込んできた。

辞めた。そして、一年も経たないうちに十二人いた同期は、四人になった。人事は責任を感じて辞めてしまったらしい。もう、誰とも連絡を取っていない。同期だったのに、そういえば、研修で隣の席だった奴以外と、LINEを交換していなかった。

無職になった。タイミーを始めた。色んな現場に行った。とあるオフィス用品メーカーは本当に最悪で、悪口と恫喝に手足が生えたみたいな社員がドン引きする悪態をつきまくっていた。段ボールと人間は蹴り上げられた。俺は体格もあって直接手は出されなかったけど、どこかのタイミングで本気でシバいてやろうと思っていた。殺人事件がこの世からなくならない理由がわかった。

アパートの粗大ゴミ処理の現場に行った。暑かった。もう一人のタイミーさんは、左足をレジ袋でぐるぐる巻きにしていた。右足のスニーカーは靴底がパカパカ剥がれかけていて、それをガムテープで留めていた。二人で、ひたすらゴミを屋上から運んだ。古本、扇風機…。その人は歩くたびにぜえ、ぜえと言って、そして若干パカッ、パカッと靴底がひらめくのだった。二人とも喋らなかった。こんな場所で喋ってやるか、という意地みたいなものが互いのなかに存在していたように、思う。社員が屋上のコンクリートを無理やり削るから、その削りカスが目に入ってたまらなく痛かった。けれども、そこから見える夕陽は結構綺麗だった。何も、遮るものがなかった。

『PERFECT DAYS』という映画を途中まで観て、やめた。仕事を勢いで、というか身心を守る為に辞めてしまい、この先どうなるのか何も分からないあのときのことを思い出した。最近は全く思い出していなかったけど、昼休みカンカン照りの中溶けそうになりながら松屋に入ったり、ベルトを忘れたから千日前かどこかのダイソーで百十円のベルトを買ったらしたことを思い出した。ある意味気楽で、大した責任もなかったから、ある程度幸福ではあったかもしれない。何も地続きにならずに、ブツ切りの肉として出される。それを、ただ焼いて食うだけ。そんな毎日だった。風の色が少し灰色に近かった。息は湿っぽかった。今はどうかというと、わりかしカラッとしている。結構乾いていて、いいかもしれない。湿った布団より、乾いて爽やかでさえあるタオルケットの方がいいのは確かだろう。なんだかんだ、二年が経ってしまう。早かった、とはつくづく思うけれども、この一年は正直、長い。まだ一年経っていない。長い。

どこのタイミングで、もっと外へ飛び出すか。よりチリチリと身体を焦がすのか。怖いし、失敗するのかもしれないなと思うけれども、まあ、そのときはもう一度しっとりした毎日になってしまうだけだ。少し重くて灰色で、ちょっとは空気がおいしい。そんな毎日へ。