言葉

なんでもかんでも言葉にすればいいってもんでもない。腰が抜けて、立てなくなって、歩けなくなった。それだけでいい気もする。ライブが終わって、公園で頭を覚ましていた。現実に戻れなくなるから。ラスト、スモークの中でゆらゆらと完璧かつ絶妙なタイミングで揺らめく照明に、完全にやられてしまっていた。これを超えるステージが存在するのかと、本気で恐ろしくなる。

言葉にできない。してはいけない気がする。とても鴨川の空気が吸いたくなって、梅田から阪急電車に乗って河原町へ行こうかと思った。けどそうしなかった。向こう見ずに、直感に任せるのではなくて、きちんと寝ようと思って家に帰った。けど、やっぱり身体は嫌がっていて、結局この時間まで起きている。ずっと頭が冴えている。直感に従うのか、それとも脳みそで考えてやるのか。数年前までは純度100で直感派だったけど、最近は大脳を使うということを覚えた。ただ、これが正しいのか、わからない。帰り道、たぶん10代くらいの若者が駅前にたむろしていて、腹の底からゲラゲラ笑っていた。若い。この無敵ゲラゲラは一瞬の季節にしか許されないものであり、無性に懐かしくなり、そして寂しくなる。けれど、充分謳歌したのも事実であり、まあ相応にちゃんとやろう、という感じだ。

でも、今日エイヤで阪急に飛び乗って河原町に行っていたらどうだったのだろうかと考える。ライブでカンカンに火照った身体は、やはり川による冷却を求めていた。ただ、ぼんやりと川を眺めることによって、何かがよくなった試しがないということを、残念ながら学んでしまったのだと思う。

余韻に浸る、よかった、とかでは済まず、カネコの音楽を聴く度に「お前は結局どう生きるんや?」という根本的な問いを突きつけられている気がする。日々の活力とか楽しみとか、そういう面はもちろんある。けど、俺はもっと別のところで、つまり魂を賭けて音を鳴らすその姿に純粋に打ちのめされに行っているのだと、そう思う。きちんとひれ伏したあとで、どうしていくのかを考える。けど、今日はシンプルに強烈すぎた。もう何わからない。口から滑り出た自分の魂を3回くらい頑張って入れ直した。音楽を聴いて腰が抜けたのは初めてのことだ。

 

別に、無理に言葉にしない。この感覚をただ抱えて、己の魂を削る。パスタにチーズをおろしてかけるみたいにして。