『さびしくない』

朝。カーテンを開けていた。だから、日光が直接顔にかかる。

研修旅行、二日目。絶対に寝坊ができない。スマホのアラームを四つ連続でセットして、モーニングコールの設定も完了。カーテンも開けておく。執拗なアラームとモーニングコールと日光。

これで起きられないはずがない。絶対に大丈夫。

朝五時四十五分くらいに目が覚めた。しかも、頭がシャキ、としている。気持ちがいい。

ふとLINEを見る。

 

「カネコ新曲!!!!」

 

カネコアヤノが好きな奴からの、LINE。

すぐさま公式Twitterを見る。

 

"4.17.2024 digital release 『ラッキー/さびしくない』"

 

脳内に濁流が駆け巡る。衝撃。なんと形容してよいのか判別の付かないドブが脳内で踊り狂う。興奮。そっと、安物のワイヤレスイヤホンを耳にあてがって、再生する。三重県のよくわからない場所の、ビジネスホテルで。

 

渦。濁った渦だ。灰色の渦の中に、カネコアヤノの声が響く。

 

動けない。ぴったり絡め取られる。どう聴いたって、彼女の歌声だ。"明日には皿洗いをしよう"

でも、今までの曲から感じたことのない不穏さが常に付きまとう。坦々麺とソフトクリームを一緒に食ってるみたいな。

"無理ない範囲で君の隣にいたいだけ"

浮いているみたい。前作の『タオルケットは穏やかな』は、完璧に脱色された水の流れだ。その流れのどこかに行き着いたはての、カネコがいる。ただ、立っている。

 

踊り出したくなるような。幸福そのものという名のイントロ。

 

"ダサい帽子を隠して電車に乗った"

 

世界の可能性に想いを馳せる。なんだか生まれたわけだけど、カネコアヤノの歌を聴ける生というものがある。ただ、それだけだ。さ「び」しくない。寂しくない、じゃなくて。さびしくないときは、絶対に寂しい。でも、それでいい。ずっと叫び続ける彼女がいる。穏やかな流れの中に、濁流の中に確かに潜む歌声とずっしりした言葉たち。不穏さからの解放。緊張からのカタルシス。いきなり晴れる。悩みに悩んだ末に、もうどうしようもなくなってどうなっちまんだろうとか思っていたときに、喉に絡まっていた痰がいきなりスッと飲み込めて、全部がほんの一瞬だけ、一瞬だけ晴れる、あの瞬間。悩みの軸足からややズレるところに潜む奇跡みたいな自由。突き抜ける。確実に。歌が突き抜ける。黒と灰色二色で混ぜた絵の具と、突き抜けるカネコアヤノの存在と温度。気がついたらずっと聴き続けている。ずっと。頭の細胞の切れ目に、ピタッと入り込む。液体そのもの。世界を塗り替える液体。絵の具ではないんだけど。渦そのものに、のまれる、とかじゃない。一緒に渦になる。うねり続ける。

生きるとは、うねりまくることだ!

"今夜は特に冷え込むね"

さびしくなくなった彼女に想いを馳せる。このうねりのなかで突き抜けて、さびしくないと歌うカネコアヤノについて。それは世界が蠢いているということであり、人生が動いているということであり、人間が生きていることそのものであり、ただおれとそれ、おまえだけになる空間と瞬間という何よりも絶対に尊いそれ、つまりは幸福ということだ。

"最近は 最近は さびしくない"