本当に大事なことは誰にも言えない

本当に、全身の細胞のことを否が応でも意識せざるを得ないような、そんな、生の悦びを根底から感じられるような出来事に出会ったとき、誰にも言えなくなってしまう。

減るモンではない。それはそうだ。話したところで何も減らないし、むしろ感動を共有できて、なんだかイイ感じがする。けれど、言葉にするということは何かを必ず削ぎ落とすことだ。自分の言葉であっても、それは他者なのであり、言語による媒介は必ず自己俯瞰を通したフィルターがかかる。つまり、他人に何かを伝えるとき、その誰かの視線を導入せずに言葉を形作ることはできない。だから、実は言葉にすると、減る。きっちり精神のモヤモヤ分が削ぎ落とされる。これを逆手に取ると、自分の悩みだとかを日記に書き心を楽にするという方法に繋がるわけだ。言葉にした時点で他者に知覚され、それは魔法の終わり、青春の極み、夢からの目覚めを意味する。内面に籠る限り全ては夢であり続ける。悩みを他人に話すことが精神安定に繋がるのは、無限に続く煌きが有限なものとなるからだ。言語によって他者と繋がることで、我々は素面でいられる。

本当に全身で悦びを覚えたり、生きることの快楽を純度100%で受け取ったときは、誰にも話したくない。そのモヤは全部独り占めだ。僕の中の血管を通って、頭のあたりをグルグル循環していくのだ。そうしてなんとも言えないものが滲み出た結果が、ソイツが纏う雰囲気だったりするのだと思う。

せっせと、溜め込む。働いていると特に、クリアに話し、分析をすることが正義になる。労働、利潤を目的とする行動には、"一旦" 何事も明確にしておき、迷いを断ち切ることが必要となる。しかし、それはあくまでも仮の姿であり、生きることはもっともっと、靄を溜め込め続ける、そういうことなのだと思う。

(2024.10.2)

長い回り道

A detour

回り道、という日本語がある。周る、と表記する方が的確なように思うのだけれど、回る、の方がしっくりくる。迂回、も回っているのだし、このどこにも辿り着かない感覚がグルグル感と結びついているのだろうか。

一直線で目的地に辿り着ける条件が揃っているくせに、あえて違うことをしてしまう、というどうにもならない癖がある。そういう脇道で、土をほじくっているうちに時間が経って、おうちへ帰る時間がやってくる。心の中ではずっと、今やらねば、と思い続けているのだれけど、しかし中々そうはいかず、外堀を掘り続けてしまう。まだ間に合う、ということだけを希望に感じて、周辺機器を揃えることに精を出す。本当はメインのコンピュータを吟味せねばならないのに、マウスに拘ってしまうということの享楽性に、溺れきっている。それはSNSの性質と不可分でもある。断片がとめどなく流れ続け、分裂し続けることが推奨される。集中より分散。多分、そのモードに身体が中々侵されているという側面もある。し、元々そういった傾向が強かったような気もする。本当のところはよくわからないけれど。

けれど、シンプルな話で、最近そうも言っていられなくなった。回り道とは即ち無限へと続く未来を作り続ける営みなのだが、実際そんなものはハリボテなのであり、もうそろそろスクリーンに映し出された夢から醒めるべきであるし、そうしたモードでもなくなってしまった。

ある関心は、どこまでデカいことができるか。その一点のみだ。常日頃からデカいことを考え続けることはむちゃくちゃしんどいのだが、しかしもうそうするしかないのである。俺にはしんどさとかそこそこの負荷、辛さが必要である。そうしないと自分の錘が外れて、より高次なキツさが待ち受けているのだ。まあ、四十年したらそこそこジジイになり、落ち着くだろうと思う。ああ、はやく変な欲望とか全部捨てて、平日昼間の水春の内風呂でプカプカ浮かぶジジイになりたい。私はジジイになりたい。だが、気持ちよくスーパー銭湯の風呂に浮かぶためには、今やれるだけのことを燃やし尽くす必要があるのだ。気持ちの良いジェットバスに浸かるために。公園で昔のことをひたすら思い出し続けるジジイを見つめる、鳩たちの群れ。

寝る。三食食う。野菜と果物を食う。ヤニは吸わない。酒は多くて二杯で留める。昼から呑んだりしない。アルコールへの逃げは破滅の始まりだ。あと人を恨まない。どうせ他人だ。そんな感じで健康なジジイになる。いまのデカすぎる欲望を消し去るという、生の在り方だ。

ああ、浮かびてえ。水春の風呂に。

kanekoayano 大阪野音

うしろでずっとカネコアヤノの音楽が鳴っている。壁を隔てた向こう側にカネコがいる。信じられない。

『やさしい生活』のアレンジが流れる。それを、隣の二人組が口ずさむ。リハーサル。隠す気などなく、音が全て漏れてしまう。暑い。しばらくして、道路の反対側のキューズモールに行って、ソフトクリームを食べた。

ライブが始まるのは午後六時。開場の午後五時の三分ほど前に戻ってきて、整理番号が呼ばれるのを待っている。百五十六番。早いのか遅いのか分からないけれど、後方芝生席、前から二列目に座ることができた。右隣には男ひとりと、左隣にはバンドをやっているらしき大学生の二人組。

待つ。スマホの電源切って、一時間近くぼうっとする。色んな人がやってくる。一人できたり、二人で来たり、入ってすぐ写真を撮ったり、ニコニコしていたり、座って俯いていたり。各々が、自由にやってくる。バラバラの人間に見えるけれど、全員カネコアヤノの奏でる音を聴きに来ている。全員。一人残らず。

来る人々の流れに身を任せる。ゆらゆらと流れていく感じ。ふだん、仕事の細かいことばかり考えたり、嫌な奴のことを思い出してムカついたり、意味もなくスマホをいじってしまったりすること全部が、全くの無意味に思えてくる。好きな音を聴きにくる。それまで、じっと待つ。それでいいじゃん、何かも。それだけで。

定刻を十分過ぎてライブが始まる。バラバラだった開場が一気にキュッと縮まって、赤いドレスを着たカネコアヤノ一点に集中する。全員、彼女の音を聴きにきている。彼女が吠えて跳んだりするところを。全員が、一点を見つめる。その一点はもっと、カネコアヤノの背中の裏側まで続いている。

音が鳴る。『サマーバケーション』。去年、私生活が本当に最悪だったときにずっと聴いていた。"夏が終わる頃には 全部がよくなる" この詞にどれだけ救われてきたことか。そう、全部がよくなる。何かがマシになる、とかじゃない。全部が、良くなるのだ。

ライブのとき、色んなことを思い出す。普段日常では思い出さないような記憶。それが、なんとなく嫌だった。もっと目の前に集中していたい。けれど、多分、自分にとって彼女の音楽は日々の清算なんだと思う。色んなことを考えてきた結果を、振り返るための儀式。ライブは一方向なんかじゃないのだ。各々が、彼女の音を聴いて、自分の中から渦が生まれ、それが全体に波及する。舞台に立つバンドメンバー全員に伝わる。音が変わる。空間が歪む。互いに巻き込まれ続ける。

あそこに居た全員それぞれの生活、思考、魂がお互いに影響しながら大きなうねりになっていく。あの、目に見えない熱気、高揚。これこそがグルーヴと呼ばれるものの正体なのかもしれない。各々の生が抉り出される場としての野外音楽堂。それをまとめ上げるカネコアヤノという圧倒的存在とバンドメンバーたち。カネコアヤノが、バンドとしてのkanekoayanoの結成を日比谷で宣言したことの意味を鮮明にするライブだった。

バンドだ。平面だ。僕は、今まで彼女のライブに行って、引き摺り込まれ切れなかったし、自分の中に閉じこもってしまうことも多々あった。でも昨日は違う。面としての音楽だ。それが、バンドとしての音なんだと思った。

彼女達の音楽は凄まじい。日常の靄を全て、完膚なきまでに吹き飛ばす。「圧巻」の一言。一体どこからあんな力が湧いてくるのか。大地のうねりが全てカネコアヤノ、kanekoayanoを通過して発散されていく。ライブが終わったあと、身体の細胞全部が入れ替わる。その場に居合わせた者全員の人生を一変させてしまう凄まじさ。エモい、とか凄い、なんかじゃない。凄まじい。何千もの観客を、その存在一本で黙らせるという凄まじさ。人間が社会を形成し、他者と生きていくことの奇跡がそこにはある。

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個人的な話だが、何もかもが終わってしまったように感じ、ずっと冷たい部屋にいたような日々をここ一年ほど過ごしてきた。だけれども、日比谷でバンドとしてのkanekoayanoの結成を聴いたとき、まだ何も終わっちゃいないことに気づいた。

久しぶりの人と会った。思い出話をした。濃縮された日々は、確かに戻ってこないかもしれないけれど、バンドとしての変貌を遂げたカネコアヤノを見ていると、まあ、今からが始まりなんだなと、しみじみ思う。また、どこかで、ではなくて、京都で集まって酒を飲もう。そんな日々を作るために。頑張るぞ。

俺の地元の大阪で、kanekoayanoの音楽はずっしりとした一つの面、として、森ノ宮のあの空間で鳴り響いた。その事実を、俺は大事に大事に、記憶し続けるだろう。ありがとう。

(2024.9.16)

傾く

例えば道を歩いているとして、真ん中にカラーコーンが出てくる。どうやって避けるか?右か、左か。果ては股の下に通して直進するのか。

そういうときは、なんとなく惹かれる方へ曲がっていく。みぎ、だな。直前になっていや、左の方が正しい、みたいな。何かを選択するときの「エイヤ」の感触。それは好きな人への告白を風呂上がりにふと決意したときとか、道を間違えた後にサッとUターンしてみたりする瞬間と大差がない。何も考えていないのだけれど、何故か合っていると直感できる。そして、何よりもキモチがいい。スーッと、流れていく。そうそう、これこれ。これなんだよな。あ〜気持ちいい。身体の中をぬるま湯がツツーッと通り抜ける。あの、感覚。

これが、最近消えていた。だけどまた戻りそうだ。身体が引っ張られる方へ、素直に身を任せてみる。意固地とかひねくれ、偏屈さを捨てて、ただ飛び込む。そうするとスルリと流れる。シルクの上を滑り続ける。

お金とか、周りの目とか、将来性、みたいな概念やらなんだか変なものたちのことを考えて何かを決めるという、「賢い決断」というものは実は最も愚かである、と敢えて断言してみる。

定量的、論理的に正しくても、僕たちには肉体があり、どうしようもないクセにその生が運命付けられているのだ。所詮は生き物だ。重力には逆らえない。重さ、しなり、そのめんどくささを抱えて生きていくしかない。一周回って、という留保は付けておくが、ぼくはやはりどうあがいたって、気持ちが良い方向に流れていく。

身体が傾く方へ。魂の求めるままに。

そして、自分が行き着くべき場所へ。

2024.9.14

広島を走る

出張で広島にやってきた。会社の経費で新幹線に乗り、会社の経費でレンタカーを借りて、走った。岡山から広島の県境、国道二号線に「広島県」「福山市」という標識が聳え立つ。

即座に思い出す。来たことがある。大学二回生のころ、京都から今治までママチャリで行ったとき、自転車でこの地を通った。そして、写真を撮った。

 

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京都から愛媛までママチャリで行った話〜三日目(前半)〜 - お前は何がしたいんだ

その地を、セットした髪で、スーツ着てクルマに乗って走っている。何がしたいかわからず、ひたすら衝動を振り撒いていた、六年前。野宿して、ママチャリで移動していたのが、いまやアパホテルに泊まって、新幹線に乗って、そしてモノを売るためにだけ移動している。

むかし、軽バンに乗って西日本をグルグル巡ったことがあった。何もあてもないまま、国道二号線を走り、岡山で車中泊し、倉敷の美観地区に寄って、広島、山口、そして果ては鹿児島まで。

夜、広島のアパホテルに泊まる。ラーメンを食べに外に出て、ぶらぶらする。

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まぶしい。毛虫みたいに路面電車がこちらへ伸びてくるのが愉快だ。

少し昔、広島でヒッチハイクをしたことがあった。とにかくカネがなかった。けれどどこかへいきたかった。正確には、博多からヒッチハイクして、広島までやってきた。夜、このあたりをぶらついていたことをなんとなく覚えている。宮島の辺りから、お兄さん二人組に乗せてもらって、駅前で降ろしてもらった。あの、不安。何がどうなるのか一切分からないドキドキ。心の底から、神経の先端から自由を吸い尽くしていた。駅前をうろつき、古本屋に行ってみたりして、そして何も食わなかった。そのときの眩しさと、今感じるそれとは質が全く異なる。たしか、どこかくら寿司の前で四時間くらい立ち尽くして、夜中に拾ってもらったはずだ。

別れた恋人と広島に旅行に来たことがある。店を休みにして、二人でいきなりやってきた。お好み焼きを食べた。原爆ドームを見に行った。ちょうど、元気がなくなりかけていた頃だった。ただ、なぜ広島に行ったのか、今となってはよくわからない。

この間、カネコアヤノのライブを聴きに広島に来た。パルコのあるあたり。今日歩いても思い出す。周りには、何人か広島出身のひとがいた。

大阪からニョキニョキ伸びていく二号線は、理由はないけれどどこかへ行きたくてたまらなかった数年前の自分の受け皿になっていたのだろう。山陽に、受け止められていたと言っても過言ではないのかもしれない。移動の、喜び。別種の逃避。動き方には、様々な角度がある。

あてもなく、行きまくっていた過去が、なんとなく今に繋がっていく。ただ、工場で製造されたものを売るためだけに移動しているイマは、やや滑稽だなとも思う。魂を薄く広げて伸ばしていた、拡散の日々は、今にどう響いているのだろうか?

あてもない移動が嫌になって、理由が欲しくなって、今の仕事に就いた。理由が、どうしても欲しかったし、欲しかった未来は今手元にある。

別にモラトリアムを美化したいわけじゃないし、働いているイマから昔を振り返って感傷に浸りたいわけでもない。ただ、あの移動の日々が今にどう繋がっているのか、考える。何かがどうにかなったのかどうか、正直のところさっぱり分からないからだ。

何かを言い表すために生きている

お金を稼ぐとか、人にえらいと褒められるだとか、したい。大きな家に住みたいとか、美味しいものをたらふく食べたい。だが、究極的に言って、何でもかんでも自分で生み出したい。どこに針を刺すのか、ということ。どこに軸足を置くのか。それがはっきりするだけで、正しい呼吸の仕方がわかるようになる。自分の息の吸い方がわからない人が、あまりにも多い。そういう人々が。お腹の辺りに気持ちよさを持ってきて、ただ息を吸う。息を吸って、吐いて、生きられることのの心地良さ。気持ちよさをきちんと感じられるようになるために、書いて刺す。ざっくりと地盤に、脚をくくりつける。メインとサブを決める。間違っても、本番ではないものをマジだと思い込んではいけない。どうでもいいことを笑って飛ばしてしまうために、在処を決める。

そのために、刻みつける。毎日。毎日。

距離

距離がある。この人とは連絡を取れるかなあ、という時間の距離。連絡を取り合ったり、することへの賞味期限。なんとなく連絡が来たり、取ったりするけれど、いつしかそういうことをしなくなる臨界点のようなものがある。そんな気がする。

だいたい一年。多分そんなもの。それを過ぎると、お互いに「なんかやめとくか」みたいな暗黙の了解が生成される。距離を超えて生まれる、了解。そもそも了解が明確になされるのか、という問題はさておき。

その人がいなくなっていく。考えなくなる。ふと、思い出しても、灰色の写真の中に押し込められている。あるけれど、ない。そういうもの。終わってしまったがために取り出せなくなる。箱にしまったおもちゃを遠くから、眺めた続ける。

そんな人々を地層のように織りなして生きていっている。バスを待っているときとか、帰り道にキャッチを避けて歩こうと決断した瞬間に、少し思い出すくらいの。どこで何をしているのかはわからない。何を食べて、どんな人と冗談を言い合っているのか。でも、まあ人ってそんなに変わらないかもしれないし、案外そのままであったりする。そして、時たま、この法則が破れることだってある。冷凍されていたはずの人が、何年も昔のまま、そのまま話しかけてくれたり。そうした積み重ねが、自分の身体に積み重なっている。