眩しい

いつまで会社員をやるのかわからないけど、瞳の奥が煌めいて仕方がない。ずっと光を放っている。なぜそうなっているのかというと、そう願ってきたからだ。この世に生まれたのは全てそうなるためだ。この世に存在する全てを目にして、全部俺を通して書き連ねるしかないし、そうせざるを得ない。

世界は綺麗だ。なぜなら、そういうもんだと思って生きてきたからだ。ずっと瞳の奥が光って仕方がない。どんなクソな瞬間でも、キラリと光っている。俺は俺であることに一番の喜びを覚えている。何を、芯にして生きていくのかということ。大抵の物事は教育の賜物であり、学生の終焉とは擬似的な学校的同質集団に飼い慣らされることではなく、自分の魂でその皮を一枚一枚、剥いていくことの始まりを意味している。

瞳の奥が光って仕方がない。ずっと煌めいている。毎日が眩しい。これはどうしようもないことだ。

昼休み、オフィスから出る度に思う。金儲けの一員として生まれてきた訳ではない。もっと深く、この世を見つめて記す為だ。問題は、現実のタイミングだ。実際成り立っている機構に対して、もっとわかりやすく言えばプレーされているゲームに対してどのようなポジションを取っていくのか。

大地の裏ではホッキョクグマが海に飛び込んでいる。俺の瞳は煌めいている。光りっぱなしだ。

サラリーマンの出汁

ビジネスホテルに泊まる。学生の頃も泊まったことはあるが、やはり労働者になってこそビジネスホテルの神髄が味わえるような、そんな気がする。学生の頃、五千円もするビジホは高級宿で、二千円のドミトリーかネットカフェ、又は野宿が僕にとっての常識だった。今は経費としてビジネスホテルへの宿泊代を会社に請求できるわけだが、なんというか、ここに泊まると、身体が利潤を生み出す為に透明化していくような気がしてならない。

夕食と朝食が付いて七千円という破格のホテルに泊まっている。チェックインすると、無料の夕食券、朝食券が配布される。部屋に行って、スーツを脱ぐ。丁寧にジャケットをハンガーに掛ける。シワにならないようにスラックスを、そっと吊るす。仮面を被っていた自分を剥がして、休める為の儀式だ。スーツケースを開けて、私服を出す。変身。一階のレストランで、「成型したりましたわ」感ほとばしるハンバーグを食う。

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周りのサラリーマンもむしゃむしゃ食ってる。ただ仕事して、ホテル行ってむしゃむしゃ出されたメシを食ってる。ドリンクバーも無料だったのでオレンジジュースを飲んだけど、ガキの頃駄菓子屋で五十円くらいで売ってた着色料しか入ってないジュースと同じ味がして笑ってしまった。こんな大嘘つきみたいな味のジュース、本当に久々に飲んだ。色々と凄まじいな、と思いつつ大浴場へ。

風呂に入る。僕が入った頃は空いていたけれど、続々と全裸のサラリーマンが集結してくる。くさい。飲み会のあとの、あの嫌な香りがする。全裸でビチョビチョでテッカリしたリーマンたちがわらわら風呂に入ってくる。みんな、お風呂に入りたくてこの宿に来たのではない。労働して、飲んだくれて、ひとまずさっぱりする為に風呂に来る。労働の為だけの疲労回復。労働を最終目的とした快楽。全てが消費の渦の中に集約されている。おれたちの人生を載せているボートは、資本の渦上に浮かんでいる。推進力を得る為には、消費するしかない。酒を飲み、商品化された性を享受し、そして労働する。徹底的に経済化された動物たち。与えられた賃金はまた新たな賃金へと形態を変え、ピンハネされた水蒸気たちは俺たちの頭上に浮かび雲となり、決して掴むことは叶わない。ただ餌を食い、飲み酩酊し、そしてベルトコンベアで運ばれていくようにして、湯船に浸かる。

うまくコミュニケートし、勤勉に学び、配慮を行うという、現在の世界で標準とされる人格を優等生的に仕上げることが、いわゆる"シゴデキ"の正体だ。

そして、今はその渦を外側から眺めている感覚だ。ハマり切れない。「なるほどこんな感じなのか」という答え合わせを行なっている毎日だ。

ビジネスホテルの大浴場は、サラリーマンの出汁でいっぱいだ。どんな味なのかは、しらない。(2024.11.28)

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逆潮流

言葉が逆に流れていく。適切なタイミングで、うまく発散させないと、頭の中でゴミのように渦巻いてしまう。思ったこと、思いついたことを形にしないと気が済まない。そうしないと、一日が終えられたようなそんな気持ちになれない。思いついたこと、感覚全てを書き表したくなる。それはとっても面倒といえば面倒なことなので、できればそんなことはせずに過ごしていきたいのだけれども、これは宿命だと思って諦めている。

吐き出さないと、楽になれないから。苦しいけれど書くしかない。カネはあんまりないし、色々とよくわからないが、書くしかない。

帰りの新幹線で気絶していた。新横浜からの帰り。東横線から新幹線への乗り換え通路を歩いているときに、なんだかこの乗り換えをとてつもなく急いだ記憶が、身体の奥底から呼び覚まされた。なんだか走っていたし急いでいたけど、いつのことだか思い出せない。本当に色んな場所に行ったけれども、チラっとした煌めきしか覚えていない。行きは夜行バスで、四列シートで、狭くて、隣の奴が脚はみ出させてくるしとてもストレスフルだったのだけれども、帰りの新幹線は新横浜で気絶していると、名古屋で目が覚め、そして気絶し京都に着き、最後は新大阪にいた。なんだか魔法に満ちているような世界だ。関東の、澄んだ空気(関東の空気は関西のそれと比べて、物質として軽いように思う)を吸い込んでいたはずなのに、いつもの大阪の、どよんとしたどうしようもなさに包み込まれてしまう。しょうもない大阪だ。自由席の隣に座っていたおじさんは、新横浜で乗ったときは窓の外を眺めていた。うっすら名古屋で目覚めたときも外を眺めていて、最後新大阪で降りるときも、彼は、ずっと、窓に顔を貼り付けていた。おじさんはずっと車窓を眺めていて、その間に時速300キロで鉄の塊が動き、俺は2時間ぽっちで500キロほど移動してしまっていた。なんだか、何もかもが、たまらなく不思議なことに思える。どうしておじさんはずっと外を眺め続けられるのだろうか、と思うけども、高い新幹線特急券代を支払うのであれば、延々と車窓を見ることが正解なのかもしれない。

それにしても、俺は過去新横浜で何を急いでいたのだろうか?全く思い出せない。もっと、車窓を眺めてみたりした方がいいのかもしれない。記憶が情報の渦の中で薄れてしまう前に。暗闇にぼうっと光る屋根を、今度は眺め続けてみよう。それにしても、やはり新幹線は高い。ユニバより高い。だから、窓の外を見る。高速で動き続ける世界を見るための、見物代だな。

(2024.11.24 ドウデュースが優勝したジャパンカップの後で)

日記(11/19)

頭が回らない。フルタイムで働くのは疲れる。うちの会社は18時の定時になるとそそくさドカドカと音がなってほとんどが嵐のように退社していくのがとても良い。俺はうっかり物事にハマって、身動きが取れなくなるタイプなので、そうした切断がとても身体に良い。去年、とある大型Twitterアカウントのツイートをせっせと作るバイトをしていたのだが、あめりにも入れ込み過ぎて体調を崩した。俺にはやや強迫的な部分があり、一度思い込むと中々曲げられなくなり、自分で自分を追い込んでしまう。それがストイックで世間的な成功に繋がるのならまだしも、めちゃどうでもいい部分を追い求めてしまう。自分で設定した「マイルール」を守ることに魂のほとんどを燃やしてしまうので、その分燃え尽きも早い。

最近は緩めることを覚えた。ネジを閉めるときは一箇所をギチギチにしめるのではなく、四隅を均等にゆるく締めねばならない。そんな感じで、なんとなく緩める、ということを覚えた。

まずはできるところから、とりあえず手を動かす。自分で自分をガッチガチに縛り付けていたときと比べると、ストンと大きなものが落ちた感じがするし、息もしやすい。

最近は、そんな感じでいきている。やれることしかやれないし、別に他人のことを考えてもどうにもならない。なんとかなると思ってとりあえず歩き続ける。そのプロセスこそが、日々を暮らしていくということに他ならない。ただ、まあ、自分の首に漬物石をぶら下げて過ごす日々が無意味だったかというとどうなのか分からない。別に意味があったとかなかったとかそんなことはどうでもよく、その先でただ続いていけば、過去はただそのまま過去になっていく。それだけだ。ただ、生きていくことだけが過去に対する肯定となる。

(2024.11.19)

リーマン的価値観のつまらなさ

サラリーマンになって五ヶ月目になる。まあ仕事は楽しい。ダイナミックな面もあるし、何より人と関わって何かを成し遂げるというプロセスは人間の悦びと結びついているように思う。まだ一年も経っていないわけで、これから先、色んな苦難やより大きな景色を見ることもできたりするだろう。もし勤続して運良く役職を貰えると、それはそれで結構刺激があるのだろう。

ただ、だ。賃金労働者として働くのは良いのだが、やはり、サラリーマン的価値観は絶望的につまらない。組織で働く以上体制順応的思考と周囲の機嫌伺いという「世渡り」的な精神が大前提の基盤として要求される。そこから価値転倒が起こるということは原理的にあり得ないように思う。収益を挙げるという行為は、一定のレールに従いサイクルを回すという動力から発生する。迷いや「別の仕方」へ思いを巡らせるのではなく、一辺倒になり、身体を動かす。その偏りが、やはり何度欠伸してもしたりないくらい、つまらない。絶望的なほどに。

揺れ動く価値、動き続ける不安定さ、モノの見方が転倒し続け、何が本当かわからなくなる、渦。渦そのものになっていくさま。確かにこれは不健康であり、一つの基準に従い何かをやり続けるという労働の在り方はある意味で健康そのものであるので、それが自分の救いになっている面も少なからずあるのだが、やはり、身体のリズムとは合わない。これに一生を捧げることは絶対に出来ない、という確信がある。

揺れ動くダンス、果てしなく続く世界の鼓動。この目で、瞳で、黒目で、瞳孔の底で、今の世界の全てを焼き付けたい。何もかもを記録して、見て、ただただ、考え続けたい。ぷるぷるとする寒天のような世界の中で、ただひとときの静止を楽しめるだけでいい。

今は、ゲーム的にサラリーマンを楽しんでいる。人生はどうにでもなるので、先のことは一切考えていない。27歳にしてまだサラリーマン歴半年にも満たないということは、肝を本気で据えざるをえないということだ。本当に、何事もどうにでもなる。どうにもならなければ、どうにもならなかったなあと思うだけだ。この世はゼリーだ。プリンだ。揺れている。ただただ、揺れ続ける。そんなときにどんな音が鳴るのか。鈴の音が鳴る、と歌う人がいた。俺はどうだろうか?一度、鳴らしてみるだけだ。

(2024.11.18)

無料券が当たった 5年越しに

ラーメンの無料券が当たった。

5年間、ひたすら引き続けて、初めてのことだった。

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京都駅にあるラーメン東大のLINEクーポンが当たった。2019年から、欠かさず毎回引き続けては「ハズレ」を確認するのが日課になっていた。いつからか、ハズレだと分かっているのに引く負のルーティン、儀式と化していた。朝、目覚めるとラーメン東大から通知がやってきていて、半分寝ている状態でクジを引き、ローディング…からの「ハズレ」を確認する。不定期に到来する、僕の日常だった。その度に、チ、と軽く舌打ちして、心の中で悪態をついて再び眠りにつくまでがワンセットだった。

「当たり!」今日は違った。当たった。なんか無料券が付与されていた。うそじゃん。え?ゴメン、ハズレしかないと思ってた。マジかよ。

当たったんだが。ラーメン無料券が。5年越しに。

そして、奇しくも今日は母校のホームカミングデーに行くために、京都に行くつもりだった。こんなに完璧なタイミングってあるか?まるで神様から賜ったかのようなラーメンタダ券だ。

🚃🚃🚃

京都駅は迷路みたいだと思うし、よくこんな建造物が駅として平気で使用されているなとつくづく感心する。屋外の大階段の横のエスカレーターから10階の拉麺小路へ。これ雨の日は濡れてしまうし、伊勢丹のエレベーターは混みすぎだし、そもそもマジで場所が分かりにくい。初見だと一発で辿り着けないと思う。

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入口でタダ券を見せて入店。本当に入ることを許されてしまった。Raw egg free of chargeというなんともアヤしい英語を見ながら、待つ。生卵無料、て英語でどう言えばいいのか確かにわからないな。RAW EGGS FOR FREE! とかでええのかな、とか考えていると、キタ。

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美味しかった。生卵は入れなかった。特に理由はないけれど、まあ、そういう風が吹いていたからだ。カゴの中に無造作に生卵が積んであるので、うっかりゆで卵だと思って割る悲劇が、恐らく1日に何度かは発生しているのではないかと思ったりする。

ラーメン無料券ごときで教訓を得るなよ、という話ではあるが、ちょいと俺は感動したのだ。もちろんうまかったのだが、5年間ずっとハズレでも、当たる日が来る。よくJ-popとかやっすいインタビューで語られがちな「諦めなければ夢は叶う!」的バイブスを、俺はラーメンから吸い取ったのだ。何事も継続、なのかもしれない。諦めなければ、いつか、タダでラーメンが食える。

そして、まあ思うのは、別にタダで食えなくたっていいのかもしれないということだ。多分、続けていくだけでよくて、その先に何が見えるのかはそのときにゆっくり考えればよい。とりあえず替玉はしておいた。150円払って店を出て、空中通路を歩く。デッカい京都タワーが見える。そういえば、京都にいたときにここへ行ったことは一度もないし、今後行くこともないように思える。もし、タダ券があれば登ったりするのだろうか?

まあ、5年後あたりに、またゆっくり考えよう。

5年というのは、意外に、早い。

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③コザ、首里、那覇

前回→那覇② - 沖縄市、コザ - お前は何がしたいんだ

4日目。チェックアウトギリギリに目が覚める。外はカンカンに日が照っているけれど、結構涼しい。

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青の下で歩く。

何をしているのだろう、と思う。25歳。今は何も無い。一箇所に縛られていた頃は、外に出たくてたまらなかった。早く自由な世界へ。青々とした空の下へ。

けれど、いざ本当に自分が放り出されると、何がなんだかわからなくなってしまう。ただ端的に、明るい陽の光とは対極に、大して気分も晴れることはなく、「これからどうしていこうか?」という、どうにも解決の糸口が見つかりそうもない疑念だけが頭をもたげる。

景色はすこぶる良い。どこまでも青だ。どんなに歩いても夏だ。とにかく夏だった。

適当に、バスに乗った。高速道路の入り口にバス停があって、そのベンチの上にカバンを、どさ、と置いた。ふっと肩の力が抜ける。一瞬空気が透明になる。何も分からなくなる。自分が、景色と同じ色になっていく。

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ひたすらバスに揺られて着いたのは映画館だ。新作『インディジョーンズ』を観ようと思ったけど、開演まで二時間近くある。沖縄に来てまで映画かよ、と思うかもしれないが、旅先で敢えて映画を観るのも、中々良いものだ。とは言うものの実行に移したことなど、ない。

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気が狂いそうになる雲の下を歩いた。道はどこまで続いていく。この夏のことを思い出すと、今でも胸が詰まる。得体の知れない灰色の何かが、込み上げて、キッと鋭い音を立てて胸を締め付ける。2023年の7月は、僕の中で、たんなるひとつの塊になっている。消化されることのない、物質。

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またバスに乗って、首里に行った。あまりにも綺麗だった。感動した。それも、美味しいハンバーグを食べたときのそれではなく、寝る前にスッと水を飲んで気持ちよくなるような。

そんな空気で、ずっと宙に浮いていた。

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夜、ライブに行った。間近で会えた。普通に出口にいた。でも、話し掛けられなかった。何もかも自分がダメに思えて、そんな土俵には居ないと思ってしまった。本当にびっくりするくらい目の前だった。いつもは大きなステージの、雲の上の存在だったのに。ただ普通に、ちょこんと、立っていた。

ダメだった。こんな俺が話し掛けたりなどしていけない、みたいなめちゃくちゃめんどくさいことを考えてしまった。もっと自分に胸を張れてからじゃないといけない、とか思った。でも多分、そんなことはなくてシンプルに目を合わせてありがとうございました、くらい言えばいいものなのだ。でもやはり、そうしなかったことは紛れもない事実である。ただ、こう思う。

いつか、会って話がしたい。胸を張れたときに。

ただ、話がしたい。

 

 

それだけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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(おわり)