ま、ええかと思えるようになった

「限界まで追い込まねばならない」

「やれる限りやらねばならない」

こうした言葉で、今まで自分をやたらと追い込んできた。しかし、最近は全部「ま、ええか」である。

オンラインで申し込んだバイトを限界までやり込んで身体が動かなくなった。

自分で始めた店も、儲けを度外視して自分なりの正しさを追求するあまり首が締まり、潰した。

受験勉強も「せねばならぬ」の圧力をひたすら自分にかけすぎて逆に何もできなくなり、落ちた。

思春期から青年期にかけては、自分で自分を縛ることとの闘いの日々だった。最近やっと、そこから逃れられたように思う。「まあ、しゃあない。ええか。のんびり。」こんな感じで逃げられるようになった。二十代も中盤を過ぎてやっとこさこの結論に至るのもまあアホなのだが、若い者は往々にして視野狭窄で空回りするのだから仕方がない、まあええか、と思うわけである。いまはとある会社に新卒で入って、研修を受けている。まあシャチョーとかいう奴がやたらと熱血漢で、ものすごい根性論をブチかましていた。たぶん、二年前の自分であれば「こうせねばならぬ」の呪文で、自分を縛り付けひどいプレッシャーを感じでいたが、「まあこのおっさんもどうせ死ぬし。あくまでコイツの人生の話でしかないし。ある程度は従いつつ、自分の自由は絶対に確保したうえで働こう。まあ、ほどほどに。」と思える。自身の自由は自分で確保するしかなく、ありきたりな言葉だが自分の人生の責任は自分で背負うしかないのである。「尽くす」「神経症的に張り詰めて相手の為に頑張る」ことが自己目的化すること危険だと、魂が居場所を求めてフラつくことが一番ヤバいのだと、今までの経験によって結論付けることができた。いわば、悪いヤツ、ヤバいヤツ、潰そうとしてくるヤツ、色んな魑魅魍魎有象無象に対するワクチンを、ウニャウニャゴミゴミしたここ何年かの意味不明な日々の中で摂取した、とも言えよう。

読んでも大して面白くもないだろうことをつらつらと書いたが、まあ結論自分という魂の器にできることなどすげえ限られているのであり、他人がどう言おうとまあ方向性というか傾き具合、みたいなものはある程度変えられないのであり、危険からは適度に離れ、学べるところはそこそこに学んでおき、まあひとまず健康に生き、のらりくらり、チャンスが来ればとりあえず飛びついてバットを振っておき、巡ってこなくっても自分の腹の中に足場を組み込んで、そこで踏ん張ってそこそこ楽しく生きていけばよいのだ。

というか、気張れば気張るほど何も成すことができず、求めると得られず、自分を動かそうとするにつれ段々と何もできなくなる、ということはあるていど、真理だといえるように思う。というわけで、スーツを着ているときは気を張っているが、魂売れやと凄まれてもま、知らんわボケといいながら屁をこいている。

そして、こうして地に足を付けると、魂がどっしりと臓器の上に乗っかって寛ぎ出すのだ。

これが息をすること、つまり喜びそのものであるともいえる。