ライブに行っても記憶がない

ライブに行ってもあんまし覚えていないな。なんことに気がついたのは、カネコアヤノのビルボードライブの音源を聴いているときだった。

十二月に大阪で行われたビルボードライブ。その場に俺は居合わせており、確かにハンバーガーを食いながら一人で聴いていた。だけど、その時の音源をApple Musicで聴き直していると、本当にその場に居合わせたのか、という錯覚を覚える。そう、俺にはあまりライブの記憶というものが、ないのだ。

確かに、曲の感触は記憶にある。場所の雰囲気も覚えている。だけど、なんだか夢見心地というか、その場に自分の魂が本当に存在していたのかどうな、あやしい。ライブを聞いてきるときは、どこか自分の本体が飛んでいってしまっているような感覚がある。聴いている。音を浴びている。いるのだけれど、その場の臨場感だとか、そういったものは全く思い出せない。いや、ゾワッとした感情を欠片として持ち合わせていたりはするのだけれど、やっぱりどう思い返してもその現場に居合わせたのかどうかが、確信が持てない。

そもそも、アーティストのライブを聴く、という行為は不思議だなと思う。日常的にご飯を食べたり、旅行に行ったりするのとはまた違う。ただ、全てを剥き出しにしている人間からの発露を、浴びるだけ。突っ立ったり座ったりしてひたすら浴びる。不思議だ。そこでセッションを始めたり、市場調査を行ったりするわけでもない。ただ、聴いているのだ。ヘンテコな感じさえする。それは娯楽のため?本人が好きだから会いに行くため?おれも、理由はまあ好きだし、求めているし、と言えなくもないが、それが芯を食ったものなのかと問われると、困ってしまう。

そもそも、行動に理由なんてない気がしてきた。シナプスがビュッと出て、身体が動き、後から「まあこんなもんやろ」という風に納得している。話は変わるが昨日は地球ドラマチックを見た。蜂のドキュメンタリーだったのだけれど、誰に教えられるわけでもなく蜂は蜜を運んで、巣を作ったりするわけだ。ま、ああいうのを見ると、理性を信じて、「本質」だとかを真剣に議論している人間がバカらしくなってくる。ま、なんだか流れているのだ。それはそう、だからそうなっているのであり、まあなんとなく動いたりしてたまに言語化して、またノリでいろんなものを食ったりする。ライブに行くのもその一環であり、頭の中を音が駆け抜けたことがあるという太古の記憶が、ほぼ知覚されずに残っていく。全てはあやふやであり、カチッとはしておらず、ゆえによくよく考えると覚えていないなんてことは、たくさんあるのだろう。

なんだか久しぶりに何もとりとめのない感じになってしまった。まあ、僕は自分の人生全般に対して現実感がない状況がずっと続いており、何もかもを薄い膜越しに知覚している。みんなもそうなのかはわからない。ライブの記憶があんまり残らないのは正直悲しいけど、でもずっとそれが鮮やかに鳴り響くのも、なんだか健康ではないのかもしれない。断片が残ったり、残らなかったりする。生きて世界に触れるとはそういう行為であり、あまりに気に病む必要はないのかもしれない。とりあえず、また月末にチケットを取った。楽しみだ。