京都は夢の国だ

今日は用事があって京都に行った。人と会ったりするために。出町柳からバスに乗って歩いたり、自転車を借りて京都駅まで漕いだ。

断言する。京都は夢の国だ。

ミニチュアのような路地。歴史を優しくサンドして立ち並ぶ街屋たち。祇園の煌びやかさ。鴨川には若者がたむろして、酒を飲んだりぶっ倒れている。その上では川床でボウっと外を見つめる外国人。高瀬川は何食わぬ顔でそこらを流れており、ちょっと歩くと夜の街のボーイ達がそぞろ歩く。

街の真ん中を川が流れ、そこに"雑多に"人々が群れていく。そして、外国の人も適当に群れる。そこらへんに座っていたりして、ぶらぶら散歩している。それが、さらに浮かないのが物凄い。抱擁している。包み込んでいる。

混沌とも猥雑さとも違う。京都には、喧騒がある。ただいろんな人々が、どっしりとした歴史のうえで"ただ歩くことができる"という、奇跡。人類の混ざり合いの快楽の原体験が、ここにはある。井戸と鳥居と戦没碑が並ぶ狭い公園の中を、外国人の子供が砂遊びをしている。お地蔵さんがある家の奥には茶室があり和気藹々と主婦がお茶を点て、大学ではうだつの上がらない大学生がただ時間を浪費する。

この小さな箱庭は、その狭さゆえに全てを包み込む。いや、包むのではなく、ただ、置いておくことができる。ただ単に並列させられている。

僕は京都に住んでいたとき、箱庭のようだと思っていた。歴史と、多様性と、落ち着きと、喧騒と、そして理想を全て圧縮して詰め込んだ、ミニチュアのような街だと。そしてその想いは、京都を離れた今こそ、より強く感じられるのだ。

結構長いこと京都には居た。何年も住んだ。ここはヤバい、離れないと、なんだか大変なことになりそうだ。冗談ではなく、そういう想いを胸に、京都を出た。そして、今日自転車で鴨川を下り、四条大橋を渡っているときにこう思ったのだ。つい一年前まで住んでいたくせに。

 

「夢みたいだ!」