無職適性

無職になるには才能がいる。悠々自適に無職になれる人間と、毎日激しい後悔をしながら無職になる人間の二種類がいる。俺は後者だった。去年の7月に無職になった。じつは結構、楽しみだった。何もしがらみがなく、ただ自由に、やりたいことを好きなだけやれる。色んな可能性が開ける。そう思い込んでいた。

そんなことはなかった。無職になった次の日から、毎日胸の中に得体の知れない、真っ黒なゼリーがせりあがってくるかのような感覚を覚えた。口の中はパサパサに乾燥していて、いっつも味がしない。無職になったその日に、俺は沖縄に行った。でも、慶良間諸島の深く青いブルーの海や、華々しく咲き誇るハイビスカスや、カンカンに陽気な那覇の街並みたちは、全部浮いていた。浮いている南国と、よくわからないこの時間との狭間を、つるんとした時空を、ただひとりで歩いている。そんな毎日だった。

何も決まっておらず、かつ何をやってもよく、かつそこそこ若くはなく、かつおそらくここまで自由なのはこれがラストチャンスである、という状況は、俺をじわじわと圧迫していった。とにかく、全てが浮いていた。浮かんでいた。

いま、そんな9ヶ月にも及ぶ無職期間(途中契約社員として働いたりはしていたが)を経て、正社員として働いている。まだ研修が終わった段階なんだけれど、正直ダルいなという感慨しかない。(注:この文章を書いたのは4月末。そこからこの会社は退職し、転職活動を経て現在は一時的な無職。)

そこはかとなく慣れていき、まあまあ楽しくなっていくのだろうけれど。あの無職の間をもっとうまく、有意義に、より楽しく過ごせたのではないかという後悔は、ある。

だが、まあハッピーな無職ってのもそれはそれでどうなのか、という感じがしないでもないし、まあ暗くてじめっぽくてちょうどいいのかもしれない。ひたすら下を向いていた時間はもったいないと思ってしまうが、よく考えるとみんな下を向いていないフリをするために、毎日働いたりなんか頑張ってみたり、「成長」とか言ってたりするのであって、それって何かをしているだけの無職にたぶん違いないんじゃないか、とも思う。

思い返すと大学は浪人したし、入ってからも休学とかしたし、卒業してすぐには就職しなかったし、全部迂回しかしていない。ま、そこらへんは後悔してないんだけど、やっぱり謎の無職期間は本当に後悔がエグい。このエグさが全然消化できない。あれは何かの為になった時間なのか…?ウーン、わからない。なんだか、ぐっちゃぐちゃだった2023年を清算していくために、残りの20代を過ごしていくような気がする。なんともならなかった、膨らませたビニール袋みたいな時間に、色を付けるための残り時間。そんな感じだ。

と、まあまだ1年も経っていないのは正直おもしろい。永遠に続くかと思われたあの時間も、振り返れば1年にも満たないという凄まじさ。そう、意外と、駆り立てられなくたって、のんびり過ごせばいいのだなと思う。結果を求めて、何も無駄にしないように力むと、全部が零れ落ちてしまう。ただ、息をするのと同じように、淡々と過ごす。実は、俺は20代半ばを過ぎても、自分がどうやって息を吸えばいいのかがよくわかっていなかったのだと思う。この文章の前半は4月末に書き、この段落は転職が成功したいま、書いている。このゴタゴタの中で、やはり、人間やれることしかやれないのだということを嫌というほどに悟った。わかってしまった。というか、俺が特にそうで、そうじゃなかったら新卒で入った会社を5月にやめたりなんかしていない。(残業時間が100時間超える人がいたり、安全帯なしで数十メートルの高所で作業させられたり、事故が5件立て続けに起きていたり、という要素は措いておく。)

いま、ここ数年で出会った人と新しいことをやろうとしている。何度も失敗を繰り返してきた仲間であるわけだが、今回は違う。なんだかやれる。正確に言うと、続けられる。なぜなら、これは俺がやれることだからだ。背伸びは、まあいい。もしかするとあの色のない日々は、自分の型を取っていた時間なのかもしれない。まだ、肯定はできないけど。

ただ、やれることをやる。淡々と。息吸って歩くみたいに。透明に、やる。