カネコアヤノのことを知ったのは、たしか2019年の夏だ。イラン留学から帰ってきて、冷房の効いた部屋で適当にYouTubeを流し見ていた。そこで、2018年の「森道」でのカネコアヤノのライブ映像を観たのが、初めてだった。
最初はちょっとイケ好かないと思っていた。この、ふんわりした感じ。ケ、ハマってたまるか。こんなん俺の好みど真ん中やけど、好きになんねえし。とか思いつつ、もっぺん動画を見る。ふむ。もっぺん観る。ふむふむ。いやあなるほど。もう一度…。気がつけば、ずっとフルで繰り返し試聴して、すっかり虜になっていた。なんとなくイケすかない感じに思っていたのは、あまりにも好みドストライクすぎて、謎の防御機制が働いていたのだと思う。
そこから、まあライブに行きCDを買いレコード買い東京の野音に行き武道館行きビルボードに行きやらで、とにかく聴きまくった。カネコアヤノの音楽は俺の肌にピタッと張り付くのだ。何もかもが心地が良い。俺が求めていた音がそこにある。俺が聴きたいと思っていた塊がある。前頭前野にぶち込みたいとまさに思っていた言葉の羅列が、くっついて離れない詞が、全てがある。
だから、今日は感慨深かった。初めてカネコを知った「森、道、市場」に参加して、生で聴くのか。そんな、感慨に浸ったりしていた。
ライブが終わった。浮いている。宙に。浮いている。そして漂白された。真っ白になる。頭の中を全部で満たされてしまい、そこから、求めていたものが分かってくる。頭でウンウン考えていたってわかんないもの。白く、脱色された自分が、茫然としていて、そこから湯気がゆらっと立つみたく、香りが立ってくる。
楽しい、良かった、ヤバかった、凄まじかった、神懸かっていた、ハンパなかった、エグかった、カッコよかった、イカしてた、とか、もう全部が通用しない。何もかも通用しない。このライブ以前にあった言葉たちはそれを言い表すには全て不十分であり、ただ、俺は何もなくなって真っ白になり、そして、ただ求めるがままのところを知ることになった。
芸術は、行き着くところまで行くと、人間の生そのものを根底から揺さぶってしまう。
劇薬だ。
魂の欠片を取り出して、そのままアンプで増幅させたら今日のライブになるのだろう。そして、俺が求めていたのは自分がひっくり返るほどの熱狂であり、揺さぶりで、全部ぶち撒けることで、ヤバいところまで行って、ありえない場所に飛んでって、見たことのないものをブチ抜いて見ること、それだけだ。ただ、それに踏み込むのはとてつもなく怖く、崖の手前で行ったり来たりを繰り返して、まあ、おれはこんなことがしたいんどけどね、と言い募っていただけだ。手前での、タップダンス。
あまりにも凄まじい、そして己の存在全てを"載せた"ありさまを見せつけられると、それを目撃した者は否が応にも自分の魂と向き合うことになる。それは気持ち良さだとか、感動を超えた、もっと根底に突き刺さるものだ。芸術の価値とはその揺さぶりにこそあり、そして、そこにしかないのだろうとも思う。
再びライブに行くかはなんだかわからなくなってきた。ひょっとすると、このまま、自分のまま突っ走ってしまうことになるかもしれない。咆哮だ。
カネコアヤノは、魂に向かって吼えていた。
ただただ、吼えていた。
自分の音を鳴らせ。ただ、それだけ。
(2024/5/26)