「コミュ力」を持て囃しても仕方がない

コミュニケーション能力が大切だとお題目のように、教育現場でも唱えられたりする。そうした能力が高い人をコミュ力お化けと呼称したりもする。特に若者の間では。

なんだか、しょうもないなあと思う。社会全体で、そんな能力を持て囃したって仕方がない。もっと言うと、無意味でさえあるなと思う。

例えば。場を盛り上げたりする、ムードメーカー。確かに楽しい。コミュニケーション能力が高いと言えそうだ。あとは、組織内での調整能力が高い人。これもコミュ力、あり、といった風情だ。あとは営業が得意な人。セールストークに長けており、モノをバンバン売れる人。言わずもがな、といった風情がある。そして、俺も割とその傾向がある。得意ではないが、できないこともない。そしてたまにハマったりする。気持ちもいい。

でも、なんだか虚しい。たしかに、政治が上手いのはすごいことだ。出世もできそうだ。細かいところに目が届き、相手の気持ちを汲み取り気持ちよくさせることができる。だけど、なんだか虚しい。そんなことができたところで何になる?おべっかを使って褒められて、用意された役職に就く。だからどうしたのだろうか。

話が上手い人。声が大きくて、機転が効いて。おもしろい人、とはまた違うのがミソだ。おもしろくはない、というのがミソだ。でも口がよく回り、なんだか場を支配する力を持っている。これもまた虚しい。だからどうした?口が回って世界は変わるのか?多分、革命を起こすのはペラペラ喋る奴ではなく、黙って黙々と木の枝を削ったりする、そんな奴だ。

世渡りをそつなくして、あまり多く敵は作らず、うまく喋れる。何度も言うが、俗にイメージされるコミュ力に価値なんて無いと思う。それだけがあっても世界は変えられない。新しいモノなんてなおさら生み出すことができない。敢えて言うとすれば、どれだけ自分の魂から言葉を絞り出せるか、だ。飲み会で隅っこで黙々と枝豆を食っていて、帰りにポロっと、自分の肉体を内側から抉り出せたりする奴の方がよっぽど輝いている。世界に放つ閃光だ。

異論は認めないが、人生ひとそれぞれとかバカなことグダグダ言っていないで、俺たちはさっさと世界を変える必要がある。それは、革命とは違う。社会保障制度を改革するとか、貧困をなくすことも大切なのだが、何よりも、世界に俺たちが存在しているということ、この恐ろしい事実を、全てを振り絞って刻みつけることだ。それをするためには、例えばペラペラ喋ったり、嫌な奴ともうまいことやっていったり、上司に可愛がられたりする必要もあるだろう。だが、それで「コミュ力がある=すごい」なんていうバカな自惚れに浸っていてはいけない。ただ空気が読めて口が回ったとしても、それは虚しさの無限回転であり、その先を見据えないといけない。そして、もっと世の大人たちは、気を遣えなくて人と喋れなくて社交性が無い、と言われる人々が持つ輝きに目を向けなければならない。俺は怒っている。高速で声帯を震わせて内容のないことを喋って副作用的に相手を気持ち良くさせる人間像を褒め称えるのではなく、もっと深く人間存在について考え、そしてより他者に対してのめり込めるような、そういう人間を増やしていく必要がある。相手の魂の中の石ころを拾いに行く姿勢を持っていること。これこそが本当のコミュ力でる、とここでは結論付けよう。話づらさとか、暗さとか、そういったもののみで人を判断する奴らは救いようのないバカである。上っ面で気持ちよくなれないと人と付き合えないのは、幼稚を通り越してもはや恐怖だ。

ラディカルに考え、魂に向き合う。そこから本来の社交が始まる。