カネコアヤノのレコードが届いた

あの日の、夏の野音の記憶がありありと蘇ってくる。夏。今から半年以上前は夏だったのか。信じられない。あの、夏。七月。セミがジリジリと鳴いていた、野音。ライブと共に陽が落ちていく。曲と曲の間に空白を、自然の音たちが埋めていく。曲の途中、ふと空を見上げる。ビルが、遠く周りにはそびえ立つ。やや無機質にも思える建物たちの間を、カネコアヤノの音楽が突き抜けていく。その爽快さ。この上を、ずっと行くと遠い宇宙の果てまで繋がっている。その真下に、カネコアヤノがいて、歌う。野音は音が広がる、というのが素晴らしい。地球にカネコアヤノという存在が、溶けていく。そして、その境界で、何もない無職である俺と、溶けそうな暑さと、この野音と、カネコが音楽をやっているという強烈な事実が、セミの鳴き声を媒質として、溶け合う。この、目の前で回転するレコードは記憶の再生装置だ。ここまで当時の心情、風景、記憶、全てが蘇るとは。その時、そのものを真空パックに詰めたみたいだ。あるいはフリーズドライ。お湯で戻して、そのまま食べられる。そう、そのままなのだ。全部鳴り響いている。全部。夏から、つまり一番極まっていた七月から、八月を経て、秋になり、よくわからん冬になり、そして気温の上昇と共に、春が来る。夏の手前の、手前。この循環によって何もかもよくわからなくなり、季節が一巡りしそうになる前に、また夏がやってきた。この、あの、野音の日を俺は一生忘れないだろう。暑さと溶け合いというタームによって繋がれた、俺だけの野音だ。俺はこの夏をこの先一生ずっと背負って生きていく。まさか、本当に季節が逆に巡るとは。時間は巻き戻る。記憶が巻き戻す。歓声が聞こえる!喧騒だ!そう、俺が求めていたのは喧騒だ。そしてその裏側にある静けさだ。

俺の求めているもの全てが、あの夏、2023年夏のカネコアヤノ日比谷野音ワンマンショーには、存在したいる。誰にもこの感慨はわかりはしない。俺だけの、野音だ。

そうっと、重いレコードを抱きしめる。