漕ぎ終えて

f:id:kirimanjyaro7:20240312140844j:image

大阪から東京までロードバイクで行った。

本当は24時間以内に行きたかったけど、結局3日かかった。悔しい。友達3人と出発したけど、あと2人は色々とトラブルに見舞われ、結局夕方に東京に着けたのは俺だけだった。集団で達成する喜びを味わえなかったのも悔しい。

今回の敗因は二つに大別できる

・準備不足(装備、ルート確認等)

・ペース配分ミス(休憩が長すぎる)

まず、準備不足から。初っ端、大阪を出発して四條畷市まではよかったのだが、清滝トンネルで迷った。迷った挙句、ペースの差もあり二手に別れてしまった。そこから伊賀越えでも迷い、延々と奈良を漕ぎ続ける事態に。道を間違えることはタイムロスに繋がるだけでなく、精神的負担にも繋がる。端的に、萎える。モチベーションが下がる。今回、俺だけ駿河健康ランドから単独で東京に行ったのだが、そこからのルートは事前に予習しマップにもメモしていたおかげでスイスイ漕げた。

また、なるべく止まってはいけない。止まると筋肉が硬くなり、身体も冷える。ゆえに再始動が大変になる。疲れやすくなる。しかし、何より大切なのは「流れ」ていることだ。何百キロ先の目的地。途方も無い距離。隣を時速70キロ台の自動車がビュンビュン飛ばしまくる。自分だけが、燃料を用いた原動機を使わず、ただ己の筋肉だけで前に進む。国道上で繰り広げられる圧倒的孤独劇の中で唯一信じられるのは、「漕いでいる自分」のみである。止まるとそれがなくなる。止まると、途方も無い距離の途方のなさがありありと想起される。そうなると動けなくなる。動いても長いままであるとの絶望感が筋肉痛と共に全身を覆う。

しかし、漕ぎ続けていれば話は別だ。漕ぐということは、前に進んでいるということを端的に示す現実そのものである。どんなに遠かろうと、漕いでいれば、ただペダルを踏み込めば、自分の座標と目的地のそれとが、線で繋がる。この漕いでいる自分の直線上に獲物がいるとの確信が、タイヤの底から、ペダルの表面から、足の裏を伝って湧いてくる。そうすると、もうあとは漕ぐだけだ。ひたすら漕げ。ゴチャゴチャ言わずに漕げ。しんどくなったら踏め。漕ぐ、とかじゃなく、ペダルをまっすぐ踏み込め!どんな坂であっても自転車から降りるな。踏め。ただ全体重を前に掛けて、踏み込め。ただ踏み込むことだけが未来への確信に変わる。あまりにも長い坂に出くわしたときは、前を見るな。坂の頂上を見つめると、脚が動かなくなる。「あんなところまで行けるわけがない」「まだこんなにあるのか」

 

下を向け。地面だけを向いて踏め。踏め。前を見て歩け、なんて世間では言うが、ときには足元だけを見る時間も必要だ。下だけを見て俯く季節が、人間には存在する。それは坂のときだ。坂は進まない。進まないけど下を向け。下を向いて、ただただ踏み込め。

 

世田谷を超えて、本当にゲロを吐きそうになった。なんでこんなことをしているんだ。身体がキンキンに冷えて腹の底から気持ち悪さが込み上げる。吐きそうだ。誰がゆるしてください。国道246号線を漕ぎながら、念じる。しかし誰も助けてはくれない。吐きたい。尋常ではなく苦しい。本当に助けてほしい。あと45分漕がないと目的地の秋葉原には着かない。胸の辺りにジワ、と絶望が広がる。寒い。本当に吐きたい。都会の雑踏、または渋谷の若者達が余計に孤独感を増幅させる。もう降りたい。降りたい降りたい降りたい。自転車捨てたい。吐きたい。

だが、着いた。着いたのだ。なんであろうと、漕げば着く。

諦めない心とか、負けん気とか、気合とか、根性とか、精神力とか、そういうのじゃ全くない。漕げ。ただ漕げ。

 

漕げば、着く。

 

f:id:kirimanjyaro7:20240312141359j:image

 

(ちなみにもう自転車で大阪から東京に行くのはこれで2回目だ。人生でこんなことを二度もやる必要は全く無いと、確信を持っていえる。)