香港に行った。
夢のようだった。
深い赤色のタクシー。真っ赤でもなく、ピンクでもなく。ただ、深い赤。トヨタのセダン。車体は大抵ボロい。色も禿げている。この深い色こそが香港の本質を現しているようにも思う。
マンションがそびえ立つ。それも、整然としたモノではなく、ブロックを積み重ねたような。室外機がぶつぶつと外にくっついている。ちゃんと広げたりしないしわくちゃの洗濯物が干されている。干している、というよりぶらさげている。そんなマンション。人の住処が高く天にまで伸びていく。ずっと。
香港の道はなんてチャーミングなんだろう。狭い路地に存在するある一定の雰囲気を、その良さを損なわずに慎重にじっくり広げた感じ。歩くだけでこんなに楽しい街は初めてだ。一歩踏み出すたびに刺激とワクワクが全身を襲う。
香港は完全なる東洋ではなく、かといってただの西洋でもない。どちらでもない。街中に英語と繁体字の併記が溢れる。ロンドンで見た2階建てバスがユーラシア大陸の港町を走る。道行く人々も様々だ。様々、という言葉で括れないくらい。画一性とか閉鎖性といった言葉は一切この街に似合わない。混沌でもない。秩序立っているわけでもない。ただ、緩やかに色んなものが混ざり合う。混ざる、というより、ただ置かれている。そんな二重性。
どちらでもあり、どちらでもない。全てを背負う。固定されるわけではなく、薄い層の上に、危ういバランスでちょこんと二つのものを乗せる。そこから広がる彩り、唯一無二の輝き。
そしておれも、どちらでもあってどちらでもない。日本であって中国でなく、中国であって日本でない。ただ、そのまま。そのまま乗っけて生きていく。香港という街に、魂のどこかが勝手に共鳴している。鳴り止まない。どうしても歩いてしまう。
ハッピーバレー競馬場。芝生の真後ろにタワーが聳え立つ。この異形さ。しかし、何も気にならない。競馬場でサラブレッドが芝の中を駆け抜け、その後ろにマンションがキラキラと聳え立つ。それも下品さなどなく、ただ一緒にいる。調和でもなく、ただ一緒に。
成金的下品さは微塵も感じさせない。ただ、積み重ねでこうなったのだと、どっしり主張しているかのようだ。競馬場では色んな国から来た人々が、踊り、食べ、笑い、飲み、そして叫び、ただそこにいる。それぞれの快楽にただ正直に。暴れるのでも無理にはっちゃけるのでもなく、そこにいる。
ヴィクトリア湾。こんなに美しい海を初めて見た。首を思い切り左に曲げて、そこからゆっくりと右に進めて限界まで曲げる。視界にはずっと輝くビル達が目に飛び込んでくる。圧巻。
フェリーに乗ると、前も後ろも横も斜めも左もみぎももう何もかも、全てが煌びやかだ。意味がわからない。感動を通り越して意味不明である。心が追いつかない。
夢か?本気でそ思う。
そしてトラムに乗ってビクトリアピークを目指す。車内の電気は消え、ただゆっくりと、山の上の線路を列車が走る。まるでアトラクションのような。山を這う感覚が身体を伝ってくる。じっくり、じわじわと登っていく。全身でこの土地を感じられる瞬間だ。
後ろを振り向くと一瞬息が止まってしまった。
そして、山頂そのものはまた夢の中にいるようだった。この街全体が夢なんじゃないか?本気でそう思ってしまう。山に囲まれた土地に、どこにも行き場のない光が密集する。海を挟んで。向かい合って。なんと美しい形なのだろう。全てが完成され切っている。完璧だ。
香港の地形自体が奇跡みたいなものだと思う。細い湾を挟んで二つの土地が向かい合う。海と山に挟まれたすきまに、光が集まる。まっすぐな対照性。ビクトリア湾は土地の狭間であり、香港もまた挟まれている。西洋と東洋。独裁と自由。大陸と島。広東語と英語は、はざまそのものである。どちらでもなくて、ネオンの間にこそ香港の本質はある。そう思う。
街の景観がおもしろいとか、異国情緒に溢れるとか、そういった言葉ではまとめられない。世界にはこんな場所があったのだ、という、例えば小学生が親の目を盗んで校区を飛び出したときのような、はじめてロックを聴いたときのような、インターネットで怪しいサイトに接続してしまったときのような、生々しい原初の衝撃を香港はもたらしてくれる。
この土地は1997年に中国に「返還」された。そして俺も1997年に生まれた。同じ時間を、香港は歩んでいる。香港も変わりゆく。良い、とは言えない方向に向かっているのかもしれない。返還から50年が経ったころには香港はどうなっているのか?そのころ、おれもちょうど50歳だ。おれはどうなっているのだろうか?
この愛すべき土地をいつかまた訪れるだろう。
いや、訪れざるを得ない。