放浪からの卒業

地に足を付けない、ふらふらとした放浪から卒業したんだなと最近思う。昔まで、何も目的を決めず、たとえば鈍行列車などの手段を用いて知らない土地に行くことがとても楽しかった。降りたい時に降りて、寝たいときに寝る。別にホテルも予約しない。ギリギリで宿を取ることもあれば、野宿で済ませることもあった。ママチャリで移動したり、ただひたすら歩いたり。軽バンに乗って車中泊しながら、二週間ひたすら各地を巡ったり。本当にいろいろやった。やりまくった。

今年の7月にそうしたノリで沖縄や島根、東京などをぶらついた。何も楽しくなかった。何も、は言い過ぎで、ずっと乗りたかったサンライズに乗ったり、友達と会ったり、ライブに行くときは楽しい。でも、なんだかそうした移動自体へのワクワクが消え失せたのだ。恐ろしいほどに。突発的にいろんなところに行って、トラブルに見舞われ、それを乗り越える。それによって、なんだか宙に浮いたような、自分が拡張されるような感覚が得られることがたまらなく嬉しかった。

でも、そうした喜びがあまり感じられなくなった。まずトラブルはたいてい乗り越えられる。マジで。身の回りに発生する諸問題はほとんど解決可能である。マジでどうにかなる。そして、起こるトラブルの種類もおおよそ分類できてしまう。ハプニングの発生に非日常性を感じていたが、そう感じられなくなった。日常と化してしまった。それは放浪旅の刺激が無くなるに等しいことを意味する。

また、シンプルに「なにやってんのか?」感が湧いてくる。まあ、放浪してひとりで色々やっても、あんまり世界には影響を及ぼすことはできない。自分の中で何かが変わったり、刺激を得られたりということはあるが、だからといって周りに何か作用を引き起こすには中々至らない。つまり、自己完結なのである。旅行記を書いて公に晒すという手もあるが、それも間接的なものであるように感じられ、つまりもっと直接的に世の中に何かを引き起こしたいという欲求が芽生えてきた。

ゆえに、今後は放浪から得た知見を基に、それこそ地に足を付けて新しいことを始める段階に来たのだな、と思う。あとシンプルにひとりでぶらぶらしていては、大事な人に何かがあったときの助けにもなれない。つまり根無し草は気楽ではあるが、カネは稼げないし自分のことしか救えない。

突発的放浪をアイデンティティとして思春期の全てを過ごしたと断言できる自分にとって、この変化を受け入れることはたまらなく苦しかった。できることなら無計画にモンゴルに行ってロバ買って乗って中央アジアを横断したり、神戸から船に乗って中国行って印パ国境越えルートでヨーロッパに出たり、シンプルに原チャでロシアを横断したり、アメリカに頑張って不法入国して捕まってみたり色々やりたい旅は山ほどあるのだが、今のところそこまで心がウラウラと沸き立たないのも事実である。

まあ、放浪から得られた、「何をどうやってもマジでどうにでもなる」というデカすぎる思い込みは結構自分を楽しく生きさせてくれているので、過去の自分には感謝だ。今後は割とふつーに、もっと別の刺激を追い求めていきたい。この世をシバいていきたいね。世の中変えるんが、今のところの目標。どう変えるかは未定。まあ、どうにでもなる。