義務としての旅

7月が終わる。

 

「時間過ぎるの早いなあ」なんて呑気なものじゃない。気が付けば8月。今年の1月に寝て、一晩寝たな、ああ何時だろう。カレンダーが7月になってる。マジでそんな気分。

 

先週、突拍子無くバイクに乗り出してしまった。国道乗ってひたすら東に向かった。往復1000km乗った。

 

 

高2の冬、終業式が終わったあとママチャリに乗ってひたすら東に向かった。あれはクリスマスイブだったな。引き出しからユニクロの下着引っ張ってカバンに詰めて。カネ全然なかったから近所の100円ローソンでカロリーメイトのパチモン大量に買って食糧にした。10個は買ったけど途中から見るのも嫌になった。3食カロリーメイト食えるようには人間できていない。

 

あれは名古屋で挫折した。200km漕いでた。結局自転車捨てて帰ってきた。

その時まさしく通った道を5年後に100ccの小型バイクで走っている。人間変わらんなあ、と思うと同時に何をしているんだろうとも思う。

 

一体何がしたいのだろうか。

 

高校の頃からずっと、現実からの逃避衝動で自己形成をしてきた。なんせ、ひたすらママチャリを漕げば何も考えずに済む。肉体的に疲れ、あと何キロ漕げばいいのかしか考えられなくなったとき、幸福だった。皮膚の表面が熱を帯びて心臓が素早く脈打つ。耳に聞こえるのは車の音とゼエゼエという自分の息切れ音だけ。自分の他に人影は無い。空は暗くて標識の文字が無機質な呪いみたいに思えてくる。静岡 204km

コミュニケーションが取れる相手は標識の文字だけだ。あと52キロ。右に行けば国道だよ。この先、自転車は入れません。

 

ずっと何がしたいかわからない。でもどこに行くにもわくわくしてた。気がする。出発前夜はドキドキしていた。ような気がする。

 

自分の内面の実現としての放浪。頭の妄想が爆発して身体を開放する激烈な快感。生の実践としての衝動開放。衝動開放の現実的実行としての放浪。放浪としての、旅。

 

生命の危機に瀕したい。ひたすら寒い中野宿しまくりたい。雨に打たれながら国道一号線の歩道の植え込みの中で寝たい。低体温症寸前になって身体が小一時間動かないままひたすら震え続けたい。カネが底を尽きて食パンと2リットルの水だけで飢えをひたすら凌ぎたい。

 

ここ最近はちゃんと生きてこなかったんだろう。今は前ほどヒリつけなくなった。ちゃんと生きるとは自分の内なる欲求を「頭を通さず」身体に落とし込むこと。そうだと思う。悪くも、大学で頭がデカくなった。悪いことだ。ここでの頭はおれの頭じゃない。周りの頭のことだ。頭が自分の中に入り込む。

 

これからは頭を自分のものとして取り戻すしかない。ちゃんと生きるしか方法はない。取り戻すための日々だ。昔思いついた言い回しで気に入ってるものがある。

 

宿無し極寒所持金皆無ママチャリ旅は人生の劇薬

 

これからも劇薬探してちゃんと生きる続けるしかない。楽しい地獄だねえ。

(7/30)