楽しんではいけない

 緊急事態が日常となり、言葉が効力を失った、2021年夏。オリンピックから観客は消え、ロックフェスはテキトーなお願いで中止になる。

 

お願いと空気

 

 すべてはあくまでもお願いである。目に見えないビョーキとリスクという不確実性は「うつるかもしれないキケンさをおまえはカンペキにふせげるのか」という質問の権力性を最大限に高める。根拠に基づいた有効な対処法よりまず印象が全てに先立つ。「うつる」病への対処法は即ち画一性の担保であり、それ自体は誤りではないがその同一化作用は主に、最も制限しやすく、また、「無くても困らない」と考えられる享楽を制限する局面において最大化される。集まること自体が忌避され、「リスク」の元で楽しむことは最大の敵となる。非常時に楽しむことはいけない。お酒を飲んで楽しく集まったり、みんなで音楽を聴いたり旅行に出掛けたり、イベントを打つことはもちろんダメだ。なんせそれは楽しいから!アブないからではない!楽しいのがいけない。楽しみは全ての敵なのである。アブなそうで楽しいと、楽しいのがイケない。アブない、というのは本質ではない。楽しい、というのが全てだ。

 

 

楽しいのは、いけない。なんせ、今は非常事態なのだから

 

 

 病がもたらす不幸と享楽の制限がもたらすそれとは天秤にかけられることはなく、大衆は画面に映される「数」、いわゆる感染者数というパラメーターに一喜一憂する単純機械と化す。数が増えれば悲しく、下がれば嬉しい。そしてそれがゼロになると固有の「日常」は我々の手の元に舞い降りる。我々は、はぐれ物を排除し、この来るべき「ゼロ」のために全てを堪え、「日常」のために勝利を勝ち取らねばならない。制服、校則、受験、就活、勤勉労働。ガマンとは、ライフワークなのであって、それは遺伝子レベルで身体の隅々にまで行き渡っている。「ゼロ」の為に協力しない者は敵であり、そいつらのせいで「ゼロ」は訪れない。端的に、楽しいのは敵だ。

 

 勝利の為に邁進することは即ち人間という存在の不確実性を見失わさせる、理想的幻想を抱くことであり、誰かがはぐれるという社会集団において避けられない現実を覆い隠してしまう。この歪んだ画一性の元では、感染症による不幸とその対策という名の元で行われる制限によってもたらされる不幸とが天秤にかけられることはなく、「ゼロ」目標が至上のモノとなる。引きこもって死ぬよりビョーキで死ぬ方がオオゴト。老いも若きもみんな制限されよう。特に若いのはいけない。若いのは元気でバラ撒きそうで、愚かで、騒ぐからだ。元気でバラ撒きそうで愚かで騒ぐからこそ、若いのにはより強く言っておかねばならない。なんせ、それは若いのだから。しつけは大事だ。強く言って聞かせよう。楽しむことは、罰なのだ。何も天秤にかけられることはない。楽しく騒いでなんか「広がり」そうだから、もちろん酒はダメ。だって酒は楽しいから。みんなで音楽を聴くのもダメ。だって人が集まることは悪だし、何より楽しいから。現場のオレたちはめちゃくちゃ大変で、だから現場のオレたち的には楽しんでヤバ「そう」な奴らがいたら、とりあえず何か言っておく必要があるもんね。だってなんかヤバそうだから。比較考量という理性的判断が失われた世界では、目に見えぬ病はゾンビ映画化し、密=拡大=崩壊という単純図式が教条と化す。まるで、外部の人間が生物兵器を持ち込み、大規模にパニックとして拡散し、その場で人がバタバタ倒れるかのように。テロへの恐怖。ゾンビ・フォビア。

 

 今日も画面には数字が映し出される。そこからどれほどの割合が不幸に結びついているのかは分からない。何とも、比べられることはない。日常化した緊急事態が他人によって宣言される。効力を失った言葉の代替策として打ち出されたのは、信頼性の回復や誠実さとではなく、陰湿で、正しくない、権力を志向した空気感の醸成という形で現れ、つまりは管理という欲望の発散だった。

2021年、夏。

 

2021.7.8