苦行を欲している

いわゆる苦行を欲している。険しい山に登ったり、延々と何百キロも自転車を漕いだり。激しい坂をゼェゼェ言いながら歯を食いしばって漕いだり。そのまま鼻血を出したり。着の身着のままで北海道で野宿をしたり。凍えながら雪山でテントを張ったり。始発から終電まで、20時間鈍行列車に乗ったり。寝ずに京都を歩く。三条の松屋の向かいの石に五時間座って夜を明かす。苦しいことをとてつもなくしたい。なぜか。

生きている実感が湧くから。

ギリギリの極みの中でしか、生の実感を得られない。いわゆるアドレナリン中毒であるのかもしれない。

安定なんてしたくない。ずっと不安定でいたい。全ての状況は変化してほしい。変わり続ける波の中で、即興的に自分の立ち振る舞いを変えることに強烈な快楽を覚える。波に乗る中で、即興で、生きる。目標としている自分の姿がある。何も考えずに行動すること。全て身体と直感と魂の言うことを聞いて動くこと。

直感こそが神である。本気でそう思っている。頭でゴチャゴチャ考えて出した結論は全部ゴミだと思っている。進路とか、就職先とか、恋人選びにしてもそうだ。全て魂の言うことを聞け。俺は本気でそう思っている。

直感を押さえつけ、魂の声を無視し、「理性的に」考えようとして世の中で正しいとされていることに沿って意思決定をすることを俺は愚かだと思っている。なんでそんなことをするのか。自分という魂の入れ物があって、その声を聞くことだけがつまりは生きることじゃないか。それ以外なんてないじゃないか。俺は心の底からそう思っている。

一切何も考えず、但し全てのことに「正しい」という直感を持てる状態。俺はその状態になることをただひたすら目指している。そうなれば、どんなに周りが変わろうと、どんなに危機が訪れようと、ただ踊るだけでよい。身体の鼓動に合わせて踊ること。生きる喜びそのもの。

直感こそが神である。

これは俺が普段から考えすぎる人間であり、限界まで神経症的に突き詰めてしまうがゆえの処世術である。何も考えなかったときは全てがうまくいく。間違いない。しかし、その前提として、病的に張り詰めた神経がある。そこからの、解放。自分の人生を、一旦寝かせる感じ。考えに考え抜いて、一切考えずに生きること。その中で生まれる「なんとなく」の幻影を信じ切ること。その状態に至る一番手取り早い方法が、苦行なのである。鳴り響く脳内が、段々と身体に溶けていく。段々と「そうでありそうでない」状態になる。フワッと溶ける。浮く。身体の真ん中に風穴が開く。風が吹く。浮く。溶ける。その中で選択をする。フワッと浮かぶ。風が吹く。乗る。波に乗る。サイコー!という気分になる。そこから風が吹く…。この繰り返し。思えば、「ミチミチに神経が張り詰める→苦行か突発行動」というサイクルでずっと生きてきたような気がする。なんだかそういう自分の基本形からは逃れられないという、それこそ「直感」もある。まいった。やはり、極まりの中にしか生は存在しない。ヤバいな、結婚とかできるのだろうか…。まあ、それはそれとして。

というわけで提出ギリギリの課題を今からやる。マジで時間がない。

生きている、な。

(2024/2/15)