広島を走る

出張で広島にやってきた。会社の経費で新幹線に乗り、会社の経費でレンタカーを借りて、走った。岡山から広島の県境、国道二号線に「広島県」「福山市」という標識が聳え立つ。

即座に思い出す。来たことがある。大学二回生のころ、京都から今治までママチャリで行ったとき、自転車でこの地を通った。そして、写真を撮った。

 

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京都から愛媛までママチャリで行った話〜三日目(前半)〜 - お前は何がしたいんだ

その地を、セットした髪で、スーツ着てクルマに乗って走っている。何がしたいかわからず、ひたすら衝動を振り撒いていた、六年前。野宿して、ママチャリで移動していたのが、いまやアパホテルに泊まって、新幹線に乗って、そしてモノを売るためにだけ移動している。

むかし、軽バンに乗って西日本をグルグル巡ったことがあった。何もあてもないまま、国道二号線を走り、岡山で車中泊し、倉敷の美観地区に寄って、広島、山口、そして果ては鹿児島まで。

夜、広島のアパホテルに泊まる。ラーメンを食べに外に出て、ぶらぶらする。

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まぶしい。毛虫みたいに路面電車がこちらへ伸びてくるのが愉快だ。

少し昔、広島でヒッチハイクをしたことがあった。とにかくカネがなかった。けれどどこかへいきたかった。正確には、博多からヒッチハイクして、広島までやってきた。夜、このあたりをぶらついていたことをなんとなく覚えている。宮島の辺りから、お兄さん二人組に乗せてもらって、駅前で降ろしてもらった。あの、不安。何がどうなるのか一切分からないドキドキ。心の底から、神経の先端から自由を吸い尽くしていた。駅前をうろつき、古本屋に行ってみたりして、そして何も食わなかった。そのときの眩しさと、今感じるそれとは質が全く異なる。たしか、どこかくら寿司の前で四時間くらい立ち尽くして、夜中に拾ってもらったはずだ。

別れた恋人と広島に旅行に来たことがある。店を休みにして、二人でいきなりやってきた。お好み焼きを食べた。原爆ドームを見に行った。ちょうど、元気がなくなりかけていた頃だった。ただ、なぜ広島に行ったのか、今となってはよくわからない。

この間、カネコアヤノのライブを聴きに広島に来た。パルコのあるあたり。今日歩いても思い出す。周りには、何人か広島出身のひとがいた。

大阪からニョキニョキ伸びていく二号線は、理由はないけれどどこかへ行きたくてたまらなかった数年前の自分の受け皿になっていたのだろう。山陽に、受け止められていたと言っても過言ではないのかもしれない。移動の、喜び。別種の逃避。動き方には、様々な角度がある。

あてもなく、行きまくっていた過去が、なんとなく今に繋がっていく。ただ、工場で製造されたものを売るためだけに移動しているイマは、やや滑稽だなとも思う。魂を薄く広げて伸ばしていた、拡散の日々は、今にどう響いているのだろうか?

あてもない移動が嫌になって、理由が欲しくなって、今の仕事に就いた。理由が、どうしても欲しかったし、欲しかった未来は今手元にある。

別にモラトリアムを美化したいわけじゃないし、働いているイマから昔を振り返って感傷に浸りたいわけでもない。ただ、あの移動の日々が今にどう繋がっているのか、考える。何かがどうにかなったのかどうか、正直のところさっぱり分からないからだ。

何かを言い表すために生きている

お金を稼ぐとか、人にえらいと褒められるだとか、したい。大きな家に住みたいとか、美味しいものをたらふく食べたい。だが、究極的に言って、何でもかんでも自分で生み出したい。どこに針を刺すのか、ということ。どこに軸足を置くのか。それがはっきりするだけで、正しい呼吸の仕方がわかるようになる。自分の息の吸い方がわからない人が、あまりにも多い。そういう人々が。お腹の辺りに気持ちよさを持ってきて、ただ息を吸う。息を吸って、吐いて、生きられることのの心地良さ。気持ちよさをきちんと感じられるようになるために、書いて刺す。ざっくりと地盤に、脚をくくりつける。メインとサブを決める。間違っても、本番ではないものをマジだと思い込んではいけない。どうでもいいことを笑って飛ばしてしまうために、在処を決める。

そのために、刻みつける。毎日。毎日。

距離

距離がある。この人とは連絡を取れるかなあ、という時間の距離。連絡を取り合ったり、することへの賞味期限。なんとなく連絡が来たり、取ったりするけれど、いつしかそういうことをしなくなる臨界点のようなものがある。そんな気がする。

だいたい一年。多分そんなもの。それを過ぎると、お互いに「なんかやめとくか」みたいな暗黙の了解が生成される。距離を超えて生まれる、了解。そもそも了解が明確になされるのか、という問題はさておき。

その人がいなくなっていく。考えなくなる。ふと、思い出しても、灰色の写真の中に押し込められている。あるけれど、ない。そういうもの。終わってしまったがために取り出せなくなる。箱にしまったおもちゃを遠くから、眺めた続ける。

そんな人々を地層のように織りなして生きていっている。バスを待っているときとか、帰り道にキャッチを避けて歩こうと決断した瞬間に、少し思い出すくらいの。どこで何をしているのかはわからない。何を食べて、どんな人と冗談を言い合っているのか。でも、まあ人ってそんなに変わらないかもしれないし、案外そのままであったりする。そして、時たま、この法則が破れることだってある。冷凍されていたはずの人が、何年も昔のまま、そのまま話しかけてくれたり。そうした積み重ねが、自分の身体に積み重なっている。

オブセッション

とらわれている。思い付いた複雑な綾を形にすることに。ずっととらわれている。全部をポーズさせておきたいし、複雑なことはそのままにしておきたい。ずっとよくわからないままに。曖昧な状態で。囚われている。中間でホールドし続けることに。異様なまでのこだわりがある。

どうしても、気になってしまう。とりあえずのブラックホールだ。一旦存在するだけの宇宙だ。それを形にしたい。どうしても、表したい。

モノを作りたい。食べるんじゃなく。ただ、楽しみにして終えるのではなく。結晶にしたい。魂の傷跡だ。そうした火照り。カネコアヤノのレコードを聴いている。傷まみれになる。どうして惹かれるのか。それは、ずっと生き続けているからだ。うたをうたうことじゃない。

それは、吠え続けることだ。喋るんじゃない。吠えることだ。書くんじゃない。吠える。

一年が終わる。よくわからなかった一年を終える。気が付いたら時間が過ぎている。よくわからない。帰り道、駅に怪しい男が何人もたむろしている。立って、鋭い眼光で道ゆくひとを睨みつける。こうした人間が破滅への使者なんだろうな、と思う。日常の隣では魔物たちが口を開けてまっている。そして、それは人の形をしていないのかもしれない。

 

夜、歩く。ニケツした女子中学生がジャマ!と言いながら去っていく。ム、としかけたがなんだ、子供じゃないか、と思い直す。しかし、気付いている。そう、思い込もうとしているのだ。シンプルな話。

クソガキ、ウゼえ。

毎日思い込もうとしている。一旦ホールドしようとしている。レコード盤はクルクル回る。去年の夏以来の、レコードだ。たわんで回る。ノイズが入る。むかしだったら、すごく嫌な気持ちになっていた。けれど、まあいいか。こう、なったんだしな。

来年から、誰かと一緒に暮らす。他のもの、例えば瞬間湯沸かし器だとかはさておき、ぼくはこのガビガビとノイズが入る、大切なレコードを持っていくだろうと思う。クルクル、回る。愉快だ。

(2024/8/29)

 

めちゃくちゃ疲れる

働いたあとに茶道の稽古に行っていた。

めちゃくちゃ疲れた。頭が全然回らなくて、繰り返して行っていた動作が全く出来なくなる瞬間があった。こんなにぐったり疲れた人間にはなりたくない。ずっとピンピンしていたい。だが、疲労が溜まると、こう自分の中の結晶が適当に析出される感覚がある。自動化されていた動作が、全て意識の元に上り挙動がおかしくなる。

調子が悪くなる。滑らかさが失われる。そして、何もピーキーなことが考えられなくなる。

本気で労働するとは恐ろしいことだ。全てが資本家の利潤の為に、己の人生が食い尽くされていく。そう、こうして何かを書いているときにも何かストップがかかりそうになるのだが、かからない。だから書くことは楽しい。ストップがかかって反芻しているときに人は楽しさを失う。踊りと流れと揺らぎの喪失。これこそが青春の終わりであり、喜べ無くなっていく過程にちがいない。

ドライブし、駆動され、つながっていく。繋がり流れていくことこそがやはり生きることだ。決められた時間に出社し、エサのように与えられる出世と昇級に生きがいを見出す存在にはなりたくない。

与えられたものに本当などない。ここ最近、ずっとそういうことを言っている気がする。どうやってこの魂を燃やし尽くせるのか?どうすれば今日が昨日とは全く変わっていくのか?親友の言を借りるならば、「朝起きた時と寝る前の自分が全く違う」状態に、どうすれば至ることができるのか、ということだ。同じことばかり、考えている。

経験を積む、という言葉がある。珍しく新自由主義的なことを言うが、自分の生の目的に合致しない経験とやらを積んでいるヒマは全くないと思う。自分で思い立ったことをやってみて、失敗するのであればまだしも、やりたくもないことを、他人の格言にとりあえず従ってやり続ける必要はない。我々の貴重な時間と引き換えに得た「経験」が、一体誰の懐に入っていくのかをよく考える必要がある。

働いてから、休日が自分のものに感じられなくなった。労働の為の休暇だ。もっと具体的に言えば、月曜から金曜日まで労働を継続する為に英気を養うために与えられた時間を、尻尾振って喜んでしゃぶり尽くしているような。そんな感覚。

ずっとこんなことしか言っていない。どうやって魂の声を聞くのか、とかそんなこと。働き始めてたったの4ヶ月。もう革靴を脱ぎ捨ててアフリカに宝探しに行きたくなってきた。幸先が悪すぎる。定住できねえ。

やはり自分は騙せない。青春の終わり、とか周りの人間のためにもちゃんと生きる、とか言ったが知らんわ。全部嘘です。すみませんでした。

生き急ぎます。

魂の鮮度

魂には鮮度がある。変化し続ける魂を真空パックするためには、文字にするしかない。

浮かんでくる風景、イメージ、香り。前頭前野を突き動かすビート。鼓動する心臓と息、貧乏ゆすり。リズム。今という時間。

その全てが、文字となって現れる。具現化する、される。自分が言ったことで塗り固められ、乗り越えられる。自己から抜け出すための、詩、ラップ。

書く。思い出してかく。でもある一定のラインを過ぎると、一切書けなくなる。生々しさが失われる。イメージが過去になる。全てが置き去りにされ、全ての意味においての古典と化す。

そうなる前に残さねばならない。二十代前半を残さねばならない。身体が順応していく。賃労働に。円滑なコミュニケーション、とやらに。煌めきとめまいが消えるまえに。自分の中のリズムが転調する前に。

いまが、その瀬戸際。残さねばならない。最後の、ひとしぼり。

(2024.8.7)

音が消える

書くときだけ音が消える。どんな雑踏も。どんな記憶も。全部過ぎ去っていく。全てが今になる。

 

書くときにだけ、音が消え去る。イマの鼓動だけが聞こえる。そういうとき、やはり生きているんだなと、感じる。書くときには音が消えるから。自分だけが動いている。