誰もハンカチに気付かない。

寝坊した。飛び起きると同時にクローゼットへ突進しワイシャツを装着する。次にズボンに脚をハメ、ベルトを取って全ての輪っかには通さず一発で仮止めする。あとネクタイはポケットだ。駅で着ければいい。スーツを着て外套を羽織り、即席サラリーマンの出来上がりだ。約3分。そのまま玄関に転がり落ちるようにして進出し、次の瞬間には革靴に足を乗せ外に出ると同時に力を踏み込み、履く。

スマホの充電を見ると残り10%しかない。走っているうちに、そういえばこの間モバイルバッテリーのレンタルしたな、返却したコンビニが家のすぐ近くだから行ってみると、あった、俺が2日前に返したバッテリーが。こんな形で再会か、と思いつつQRコードをスキャンする。ニョキっとそいつは出てくる。よろしくな、相棒。

しかし寝癖を直すのを忘れていた。とりあえず駅まで走り、駅前のコンビニでタオルを買うことにする。タオルを濡らし頭に乗せて直す作戦だ。が、なかなかタオルが見当たらずタオルハンカチしかないので仕方なく買い、急いで駅へ向かう。

電車まであと3分、トイレにだけは行きたいので駆け込み、そして髪の毛を濡らしてみる。しかし時間がかかりすぎる。やはりハンカチを濡らすしかないか、と思い意を決して正方形の布を水浸しにしてホームに向かう。しかし、これを頭に乗せて乗るのか…?周りの視線は…?と考えたが、降り立つとちょうど電車がやってきて、生ぬるい風が一身に吹き付ける。

天然のドライヤーだ!これは寝癖を直せという天啓なのだなと思い立ち、ええいとハンカチを頭に乗せて、地下鉄に乗る。頭にハンカチを乗せて地下鉄に乗ったのは、これが初めてのことだ。

ドギマギしながら乗ってみると、誰も俺の方をジロジロ見たりはしない。それはそのはず、みんなスマートフォンに集中しているからなのだ。みんな下を向いている。誰も気付かない。いや、後ろの人はガン見していたのかもしれないが、俺の観測範囲では皆うつむいて画面を凝視したり指を滑らせていた。なんだか、現代は異様な時代になったもんだ。頭にハンカチ載せてる奴がいても誰も気付かない。自分だけ別空間にいるみたいだ。スマホをポケットから取り出す。充電は18%になっていた。順調だ。

何もかも、順調。そして、冷たく濡れたハンカチをポッケに入れるその瞬間の恐ろしさに、想いを馳せる。

(2024.2.2)