最近寒いな。どうでもいい天気の話から話題を切り出し始めるのは人生がしょうもなくなってきた証なんだって、誰かが言っていた。しらねえけど。
なんだか文章を書いているときは、心が軽くなるような気がする。もちろん話題はない。ウケたくて何かを書いたりするのはやめようかなと思う。やっぱウケたいじゃんね。仕方がない。でもやめよう。いや、やめるって言えるほどつらつらやってきた訳でもないけれど。
谷賢一って人の「従軍中のヴィトゲンシュタイン(略)」って本を買った。ぼくはこの人の芝居を観たことがあるんだけど、めちゃくちゃおもしろくて。ほんのたまにこういった大傑作に出会えるから惰性で芝居を観るのはやめられない。
その前書きにね、谷賢一のうつ病のときの描写があったんだけど、もんのすごく納得がいってしまった。や、別にぼくが今そういう状態なんだとか、精神がしんどいねんとかそういうのが言いたいんじゃなくて。ぼく自身、ひとつの物事をちょっと尋常じゃなくしつこく細かく考えてしまう、というクセが昔からある。延々と堂々と同じことをグルグルグルグルずっっと考え続ける。その先にあるのは「俯瞰視点からの全否定」だ。詳しく説明するのも面倒くさくなってきた。まあ上の本買って前書き読んでみてほしい。
おもしろくない作品というのがある。なぜなのか。そういうものには観客に空気を読ませ、無自覚を装わせつつはたらくことを強制している、という場合が多いんじゃないか。
手垢のついた感情発露。ああ、人が死ぬ。いかにも物悲しいピアノだ。ここでわたしたちの心の中には、何万回と見てきた悲劇のクライマックスが自動再生される。この後ヒロインは涙ながらにカレシへの想いを吐露する。のだろう。われわれは悲しくなる準備を始める。仮構への没入のレベルは一つ下がり、自分の状況と、目の前で進む安っぽいメロドラマを冷徹な目で捉えてしまう。しかし、それと同時にわれわれの心は悲しくなり始める。それは装置としての働きだ。実際にはそれを離れたところから見つめてしまっている。ぼくたちも、感情のパレードを演じてしまうのだ。
道化を演じている自分を見つめているときほど、白けるときはない。つまらないのはそれそのものではなく、そこから生じる自己の状態なのです。
圧倒的なリアルがみたい。もちろん他人が演じるリアルはそうなりえないかもだけど、虚構としてやり切った破滅的現実に飲み込まれたい。現実を超えた虚構をさらに覆う、虚構。自己否定的な性質を持つ虚構こそがリアルなのかもしれない。
こういうことを言ってしまうとき、すごく気持ちがいい。最後の文に関しては、自分でも何を言っているのかわからない。でもこうしてウケを狙ってそれっぽく振舞ってしんでしまう。そういうもん。俯瞰的視点からは真理は得られない。例えば。「何のために生きるのか?」
全部無駄な思考だ。あるのは、脳みそが頑張って行ってくれている認知活動だけなのに。目の前にある世界そのものの認知から組み立てた結果立ち現れる風景こそが我々の現実だ。そこから自分を離して、わかりにくくてみえにくい思考を展開したところで何も起こらない。認知が多少曲がりくねって変なところを通ったりするだけ、だ。
なんだか少し調子がよくなってきた。ゼミのプレゼンの準備しなきゃ。
💩
ブリッ